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2013年11月30日土曜日

(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「6.キリギリスのように歌いながら高3の熱い夏を・・・」

先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第6回目をここに載せたい。感謝。

イ・ソンヒが、高3のときに巡り合った音楽上の幸運、チャン・ウクチョ音楽室、作曲家イ・セゴンとの出会い、仁川専門大のときに音楽環境を整えようとした武勇伝、音楽サークル<4>(四幕五場)への参加、そしてMBC「江辺歌謡祭」への準備などを知ることができた。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)


[6] キリギリスのように歌いながら高3の熱い夏を・・・
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(父親の意向で)絵を描けないことになると、しばらく疎(おろそ)かにした歌がやりたかった。喉(声帯)がうずうずした。普段なにげなく通り過ぎた音楽学院の看板が、突然両の目に入ってきた。

その音楽学院は、当時ソウル駅と三角地(삼각지)の間に位置していた「チャン・ウクチョ(장욱조)組音楽室」だった

    (注)本ブログ関連:”チャン・ウクチョ音楽室

音楽室の門を叩いたが、職業歌手や芸能人になるという考えは夢にもなかった。事実、私は高等学校を卒業する時までも、友人が芸能界のスターを偶像のごとく崇拝する姿をまったく理解することができなかった。

いずれにせよ、「一度、思う存分歌でも歌ってみようかな」という、私心ない気持ちでチャン・ウクチョ音楽室に出入りし始めた。それが高3の時だ。

他の人びとは「高3病」(ストレス)だ。「入試地獄」といって盛んに「大学受験との戦争」に没頭している時、私は絵を描けないので、歌を歌おうと打って出たので、完全に「くそ度胸」だったわけだ。 率直にいって、大学に行きたい気持ちがあまりなかったし。

音楽室に出入りしたりしたが、正式に登録してレッスンを受けたわけではない。「芸能人になろうと決心したのか」と、それこそ目をむいて反対する家で、どうしてあえて受講料をもらうことができようか。私に金を儲ける能力があったわけでもなく。

世の中に無料がどこかにあるだろうけれど、私の歌の実力が音楽室でも受け入れられたし、一種の奨学生同様の待遇を受けることになる破格の経験をした。

チャン・ウクチョ音楽室に入って、歌を歌ってみたいと話すと、当時あまり名が知られなかった作曲家のイ・セゴン(이세건)、ソン・ジュホ(송주호)氏などが「一度、見せてください」と冷ややかな反応を見せた

私が全情熱を傾けて、ニール・セダカ(Neil Sedaka)の「きみこそすべて(You Mean Everything to Me)」(1960年)を終わらせた時、その方々は非常に満足な表情であったし、したがって私はいつでも喉が「うずうず」したら、音楽室に立ち寄るようになった。

1984年に(江辺歌謡祭で)、私に大賞の栄光をもたらし遭遇したのもまさにここだった。

実力は優れていたが、単に無名の新人という理由だけで、作曲家のイ・セゴン氏は、数多くの歌手に無視されなければならなかったし、心血を注いで書いたものは危うく永遠に、「J~、私はあなたを忘れた・・・」という、残念な思いをするところだったのだ。

    (注)本ブログ関連:”イ・セゴンと「Jへ」

家中の激しい反対を押し切って、時たまではあるが、音楽室で気が晴れるまで歌を歌うことができたのは、高3の時期、両親と「生き別れ(親離れ)」をしたおかげが大きかった。

父の所属寺院が(ソウルの南の)城南にある寺に変わったが、それでも高3の私を転校させるには大学入試が気にかかったようだ。

それで、私は祖母と三人の歳下のきょうだい達と共に、ソウルの梨泰院の家で「準-少女家長」の役をして生きなければならなかった。

    (注)イ・ソンヒは長女で歳下に弟がいることは知っていたが、更に2人のきょうだい(男女?)がいる。

遊んでばかりいた子どもも高3になれば、慌てて入試勉強に没頭するのが常なのに、なぜか私だけは万事泰平だった。

そのとき、私の心は、イソップ寓話に出てくる「アリ(蟻)」よりも「キリギリス」の側に傾いていたようだ。だから、友達が夏の間、アリのよう熱心に教科書と格闘したときに、私はキリギリスのように歌いながら暑い夏を涼しくおくった。

学校の成績は、「正直」にもどんどん下に落ちた。しかし、心配もなかった。大学というところに対する羨望はそもそもなかったから。

▼ 「私は大学に行かないつもりだ」という話を両親の前でも大っぴらに言い放ったりしたからか、84年度の3月、仁川専門大(인천전문대)環境管理学科に合格しても、父は私が果たして滞りなくやっていくことができるかについて、まったく信じられなかったようだ。本当はそんなことしたくないけれど、娘が大学登録料(授業料)をこっそり引き抜いて隠すのではないか心配になって学校までついてきて、登録済証の印を何度も確かめた。

大学に登録はしたが、数十万ウォンの登録料があまりにも惜しかった。「そのお金さえあれば私がしたい音楽をいくらでもできるはずなのに・・・」考えた末に、私は環境管理学のとある教授を訪ねて行った。

今思えば一言で「話にならない」哀訴を教授にならべた。「私は歌を歌いたいのにお金がないのです。 だから、登録料の半分だけ返していただけないでしょうか?」、まあ、そんな話だったようだ。

しばらく、あっけにとられた表情をしておられた教授は、やがて私を説得し始めた。「音楽することを止(と)めるつもりはない。だが、学校まで止(や)めながら歌を歌わなければならないほど、切迫したわけではないじゃないか。熱心にやって、アルバムでも世間にまず出すようになったら是非手伝ってあげる。」

お言葉を聞いて見ると、句句節節(一言一句)正しい言葉なので、私は考えを改めて講義にも洩れなく出席し、大学新入生としての自由を謳歌した。

思う存分歌を歌うことができるところを物色した私は、校内の音楽サークル<4>の新入会員募集ポスターが目について一走りに駆けつけて入会した

    (注)ここでいう音楽サークル<4>は、いわゆる「四幕五場」を指すと思われる。

<4>のメンバーは、音楽の実力は優れていたが、ろくな練習スペースが備えられない状態であった。私は、入学時の登録料を回してほしいと教授に駄々をこねた「勝ち気」だけ信じて、学長室に「談判」の長途(長い道のり)についた。学長面談の結果は、大成功だった。 <4>は、学校の建物屋上にある片隅に、ついにみすぼらしくても専用の練習室を整えることができた。

1学年の1学期が終わって夏休みが始まった。<4>は、その年7月29日のMBC「江辺歌謡祭(강변가요제)」を目標に猛練習に入っていったし、私は私なりに本格的に声を整え始めた。私が狙ったのは、秋のMBC「大学歌謡祭(대학가요제)」だったので、江辺歌謡祭はテストする一種の前哨戦ぐらいに軽く考えていた。
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(Youtubeに登録のAshley Maxに感謝)

2013年11月29日金曜日

地震があったんですけど

今日の日付に変わった真夜中の01:15、ドンと響いて次第に揺れがおさまったが、地震発生が最近集中する、千葉県北西部を震源にしたものだ。先週の日曜日も深夜00:50に、同じ千葉県北西部を震源にする揺れがあった。しかも深夜に地震が続くのはいい気分がしない。

(本ブログ関連:”地震が・・・”)

今日の地震について、気象庁の発表(11月29日01時19分)は次の通り。
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29日01時15分頃地震がありました。震源地は千葉県北西部で、震源の深さは約80km、地震の規模4.8と推定されます。
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地域別の震度発表では、当地の震度は「2」で、体感もそんな感じだった。


(付記)
そういえば、話題の「アイソン(ISON)彗星」が、太陽に近づいた(近日点通過29日)ところで、蒸発してしまったという話があったけれど、どうにか命をつないでいるいるという報道もある。
旅行会社主催のチャーター機に乗って、アイソン彗星を観察するというイベントがあるそうだが、どうなるのだろうか・・・12月7日の早朝に飛び立つ計画だそうだが。

2013年11月28日木曜日

石が逃げる

本当は、石が逃げれば良いのだが。美しい結晶を内蔵した岩石が、人の気配を察して地中深くに退避したら石泥棒のような事件もなかったろうに・・・それはさておき。

俳人といっても、「古句を観る」の著者としてしか存じぬが、柴田宵曲(しばたしょうきょく、1897年9月2日~1966年8月23日)の短文「動く石」に下総国葛飾郡立石村の石掘りの話しがある。畑中にある石を掘り返そうとしたが根が深くなかなか取り出せない。翌日行ってみると、石はまた深く潜り込んでいたというのだ。

江戸時代、近江国の木内石亭(きうちせきてい、1725年1月14日~1808年4月6日)の「雲根志にも触れられていて、「石の根を見んとして掘ったところ、言い伝えるごとく黄色の木の根の形をした石が土中にはびこっていた。その時、忽(たちま)ち石が振動、手伝った者どもは前後不覚の体となり、大いに病んだという。その後、この石の根を穿(うが)ちほじる事を固く戒めたという。」との記載がある。

(*) 「雲根志」:九州大学総合研究博物館 DIGITAL ARCHIVE

この石、現在の東京都葛飾区立石にある「立石様」の由来のようだ。インターネットに、さまざまな記載を見ることができるので、それらを元に一度現地を訪ねてみたい。

ネットの情報から、石が地中に逃げるという立石様の周辺には、「南蔵院裏古墳」があることから、石室との関連が推測できる・・・つまり、地中に空洞があってズリ込んだのではないかということだが・・・素人考えなので不思議な話のままでいようか。

2013年11月27日水曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 風流

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(11/20)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第32回として、「風流(풍류)」について紹介した。

まず、統一新羅時代(676年~935年)末の文人崔致遠(최치원、858年~?)による、「風流」の紹介から次のように始まった。
・崔致遠は、まだ12歳の頃に一人、唐に留学して勉学に励み、(874年)18歳で外国人のための科挙試験に合格した。その後、「黄巣(こうそう)の乱」の討伐軍軍師として従軍する。その折、黄巣が掌握した地域に、非難の文書を書いて撒いた。その文書の素晴らしさに、黄巣が驚いたという逸話がある。黄巣の乱を治めたのは、刀の力でなく、崔致遠の文章力だったといわれるほど、彼の文書の影響が強く認識された。
・後に、新羅に帰国した崔致遠は、有名な人物の碑文など多く書き残した。「鸞郞碑序」に、花郎(화랑)に関する一節、「國有玄妙之道曰風流~」(国には玄妙な道理があり、これを風流という~」がある。(同文は、高麗時代の「三国史記」(作成:1143年~1145年)に記載されている)

▼ 「霊山会相(영산회상)」の中から「細霊山(세령산)」を聴く。そこかしこに、アリランの風味がしてくる風流音楽。

次に、「花郎」の教えでもあったといわれる、「風流」と音楽について次のように解説された。
・花郎は、新羅の貴族子息の教育機関、或いはそこで教育を受けた人たちを指す。 「鸞郞碑序文」にある風流は、花郎の道(教え)のひとつと言われる。花郎は、「国仙」と言いい、言葉の通り、仙人のように景色のよい場所を訪ねては修練に励み、そこで、歌や音楽を楽しんだとも言われる。風流という言葉が今日、粋に遊ぶこと、麗しい情緒、俗なことを避け、高尚な遊戯にふけることといった、意味を持つようになった理由も、こうした過程から来たといわれる。
・朝鮮時代となると、ソンビ(博識な学者)たちが「舎廊房(사랑방)」に集い、音楽を聴いたり、絵を描いたり、詩をしたため、互いに意見を言い合った。こうした空間を「風流房(풍류방)」と呼び、そこで演奏しあった音楽を「風流音楽」と呼ぶ。酒のたしなみもその一つのよう。

▼ 酒を勧める「歌辞 勧酒歌(가사 권주가)」を聴く。酒杯ゆらり時に任せ、香りと味を楽しみたくなる・・・このまま酔いどれて。

最後に、風流音楽の種類とその意義を次のように説明された。
・風流音楽を、単に「風流」と呼ぶこともある。(朝鮮時代後期の)曲目「霊山会相」や、「ドドゥリ(도드리)」といった音楽は、弦楽器を中心に構成される演奏曲で、弦を表す「ジュル(줄)」をつけて「ジュル風流」という。また管楽器がメインとなる構成の場合は、その演奏を「テ風流」と呼ぶ。「テ」とは、管楽器の原材料の竹(テナム、대나무)の「テ」にちなむ。
・風流音楽は、楽器の構成を単純化し、ゆったりとした、観照的なメロディーを持つという特徴がある。淡々としていているが、心身の緊張を解きほぐし、自分自身に没頭する瞬間を作る。

▼ 「新水龍吟(신수룡음)」、「副題、還生(환생)」を聴く。基調に硬く・・・今様である。

2013年11月26日火曜日

イ・ソンヒの「ひとしきり笑いで」

イ・ソンヒの5集所収の「ひとしきり笑いで(한바탕 웃음으로)」(作詞作曲ソン・シヒョン、1989年)は、彼女の歌の中で、「あ!昔よ(아! 옛날이여)」、「美しい江山(아름다운 강산)」、「ケンチャナ(괜찮아)」などに通じる、何かを吹き払い、いかにも前向きな響きがする、韓国らしいトーンの強い曲である。

(本ブログ関連:”ひとしきり笑いで”)

ひとしきり笑いして、知らないふりをするには
この世界の若いため息が、あまりにも深くて
ひとしきり涙して、忘れてしまうには
この世界の若い傷跡が、あまりにも大きい
 
私は再び眠りたいだけ、子どもの頃のように夢の中で
私は再び夢を見たいだけ、ひたすら笑っていた子供の頃のように
 
若いため息、ため息が薄れる日、世界は本当に美しいよ
若い傷跡、傷跡が薄れる日、世界は本当に美しいよ
 
ひとしきり笑いして、知らないふりをするには
この世界の若いため息が、あまりにも深くて
ひとしきり涙して、忘れてしまうには
この世界の若い傷跡が、あまりにも大きい
 
(Youtubeに登録のsunnyfan100に感謝)

2013年11月25日月曜日

(資料)レイフ・ギャレット

昨日(11/24)登録した、「(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー『5.私はもうこれ以上内気な子どもではなかった』」から、気になった点や、関連情報を次のように加える。

イ・ソンヒは、小学生の頃に自分なりに童謡をアレンジして(風味をつけて)歌ったそうだが、中学生になると韓国の大衆歌謡だけでなく、カントリー・シンガーソングライターのジム・リーブス(Jim Reeves、1923年8月20日~1964年7月31日)の歌「He'll Have to Go(가야만 하리)」まで歌ったという。

イ・ソンヒ誕生は1964年であり、その年に上記ジム・リーブスは飛行機事故で亡くなっている。そのことを考えると、イ・ソンヒが中学生時代に、彼の歌を選択した背景に何があってのことだろうか。中学生の多感な時期とはいえ、まだ何を歌えばよいのか、自分にあった曲は何なのかという模索を始める前だったかもしれない。いいかえれば、彼女が書を濫読したように、音楽についてもあらゆるものを吸収しようとしていた時期だったのだろう。

イ・ソンヒが中学2年の時にようやく巡り合ったのが、新しい曲スタイルのレイフ・ギャレット(Leif Garrett、1961年11月8日~)だった。韓国のWikipediaには記載がないが、ハンギョレ紙の記事「来韓公演の歴史を書いた歌手たち」(2010年7月28日)は次のように記している。
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レイフ·ギャレット、アメリカの男性ポップ歌手。1980年、ソウル南山崇音楽堂で公演した。(ティーンエイジャーの)女性観客たちが肌着(下着)をステージに投げて話題になった。当時の公演を報道した記事には、「狂乱」、「奇声」のような言葉が登場した。来韓公演のオープニングは、多少突飛にも、第1世代の韓国のヘビメタルバンド「シャーマン」が引き受けた。
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2013年11月24日日曜日

(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「5.私はもうこれ以上内気な子どもではなかった」

先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第5回目をここに載せたい。感謝。

イ・ソンヒが多感な中学時代に経験した、ジム・リーブス、レイフ・ギャレットなどの音楽や、教師との出会いを、そして夢膨らむ高校時代に、5人組(歌)の音楽グループ結成などを知ることができた。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)


[5] 私はもうこれ以上内気な子どもではなかった
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1978年、私は信光女子中(신광여중)に入学した。制服を着て頭は髪を短くしたから良かったものの、ややもすれば国民学生(小学生)と間違えられるほど私は依然として小さかった。

2年生のときまでやはり1番、3年生のとき背番号は62番だった。私が突然成長したのでなく、3年生のときは背の大きさの逆順で番号を付けたためだ。

だが、声だけは誰よりも大きくて冴さえていて、音楽の時間はそれこそ「ほとんど私の独壇場」であった。

秋の運動会や遠足の道で、私は必ず招待歌手のもてなしを受けた。パティ・キムの「初虞(초우)」やジム・リーブス「(彼は)行かなければならないだろう」を好んで歌ったし、校長先生は歌が終われば私を呼んで直接飲み物をついでくださって、ほめられたりした。

    (注)記事には”짐.브리스”とあるが、ジム・リーブス(Jim Reeves)の誤記と思われる。

私は音楽の教科書に入っている歌曲や民謡よりは、ラジオに流れてくる韓国歌謡により一層心が引かれた。

ラジオ歌謡に従って口ずさみながら本を読むのは何ににも変えることのできない私だけの時間、私だけの幸福だった。

中学時代に出た活字化された印刷物は、何でも片っ端から読んだ。それこそ多読雑読というほど。歌謡だけが全てだと思っていた私は、中学校2学年の時、はじめてポップ・ソングの魅力を感じることになった。

金髪をゆらゆらと垂れた美少年歌手レイフ・ギャレット(Leif Garrett)のソウル公演が契機であった

(1980年の)ギャレットの公演には、色々な話も多かった。当時、一部の興奮した若者たちが肌着を脱ぎ捨てたり、発作を起こすまでするなど、マスコミの言うように「狂気」を見せたその現場に私もいた。

しかし、会場である南山の「崇音楽堂」に入るまで、レイフ・ギャレットがそれほども評判のいい歌手だとは、本当に知らなかった。ただし、ライブではなく、録音された曲に合わせて口を開ける(口ぱくな)誠意のない公演だったが、不自然でないほどアクティブなギャレットの舞台マナー、幻想的な光の中でさらに多くの光線を噴出した彼の容姿、そして客席の床まで振動が感じられるほど爆発的なサウンドは、私に大きな衝撃を与えた。世の中にこんな歌もあったんだ。

彼の公演以後、私の愛聴ラジオ番組の目録には、深夜のポップソング番組が追加されたことはもちろんだ。恋人に「すっぽかされた」友人の兄さんに無料でもらった、レイフ・ギャレット コンサート チケット一枚が、私を新しい音楽世界に引き込んだのだ

中学時代の私は、永遠に忘れるができない恩師の一人に出会った。国語科目を担当しておられたヤン・ソンオク先生がまさにその方である。

授業時間ごとに、私が国語の教科書を読む姿を注意深く見守られた先生は、ある日私を教官室に呼んだ。学生が教官室に呼び出されれば十中八九「ひどい目にあう」ことが決まっているであろうために、私はいっぱい緊張した状態で教官室に入った。

だが、意外に先生は私の声がとても朗々(낭랑)として発音も正確だといって、雄弁班に加入することを薦められた。先生は、ご自宅に私を引き連れて、雄弁練習をさせるほど熱心であられた。結局、私は校内雄弁大会で優秀賞を受賞することによって、先生の愛情に少しでも恩返しをすることになった。「最優秀賞は逃したものの、2等はなんともはや」

雄弁を通じて、内省的な性格がある程度「改造された」私は、合唱団にも入ってソプラノで活動したし、学芸会の時は(児童劇の)「靴直し屋と銀行頭取」という演劇に主演で出演したりもした。私の演技がよほど実感できたのか見物にきた高校生のお姉さんたちも絶賛した。すべてにますます自信が生じた。

周辺に友人も一人、二人増えていった。学校生活も楽しいばかりだった。

行きがかりで私は指揮者として前に出た。校内合唱大会で優勝した私たちのクラスは、教育区庁大会にまで進出した。

    (注)教育区庁:ソウル特别市など広域市の教育委員会下部执行機関。

ただし、ランキングに入れなかったが、世宗文化会館の舞台に立ったという事実、しかも舞台上の小さい舞台である指揮台に上って格好良くフォームをつけて指揮をしてみたという事実だけを考えても、(ランキングに入れなかったことを)うらやむことはなかった。

前述したように、中学校時代、私は片っ端から本を読んだ。特に「ロミオとジュリエット」は何度も繰り返し読んだ本だ。

そうしているうちに、孔子の「韋編三絶(一冊の書籍を繰り返し繰り返し読む)」という話そのまま、文字通り本自体がボロボロになった。ロミオとジュリエットの年齢が私とほぼ同じなので、それだけ共感の幅も大きかったようだ。

韓国近現代の名作や世界の名作という古典は、それなりの基準を持って読んだ。いくら不朽の傑作と評価される小説でも、ある程度読んでつまらなければ、二度と調べてみなかった。今でも、興味の要素が欠如した文は、めったに読まれない。だが、かなり重い主題を下地にしていても、プロットや表現、または気持ちにすっぽり入る登場人物があれば明け方まで火を灯す。

探偵小説の類いと武侠誌も私の読書履歴で絶対に欠かすことのできない本だ。ルパンは、無性に小面憎かったし、シャーロック・ホームズはとても素晴らしく感じられた。日常生活でも、あたかも探偵にでもなったように塀に背中を密着させて、左右をきょろきょろ見回しながらわけもなく敏捷なふりをしたりしたし、教室で鉛筆一本がなくなっても、犯人を捕らえるといったあらゆる推理を動員したりした。さらに、夢の中ではプロックコートにチェック柄の帽子、その上パイプまで口に咥えてワトソン博士とコーヒーを飲んだりもしたほどだった。

漫画本もたくさん見た。最も感動を覚えた漫画は「ガラスの城」だ。ありふれた文芸作品より、はるかに秀作ということを今でも信じて疑わない。「キャンディ」はそれほどであったし、「男女共学」も「アカシア」もとてもおもしろく眺めた。夜遅くまで、小説と漫画にはまってみると、中2の頃、視力が急激に落ちてメガネが必要になった。今使っているメガネも、その時の小説と漫画のお陰だ。

中学校の時は驚くべきことに、ただ一度も学校を移ったことがなかった。ときおり、信光女子中の後輩から「信光が産んだ2大スターは、ソンヒ姉さんとタレント イ・ミスク姉さんです」云々という手紙を受けるたび、はっきりした母校を持っていることをとてもに幸いに思う。

1981年3月、私は祥明女子高(상명여고)に進学した。私は、もうこれ以上内気な子どもではなかった。

歌が好きな友人たちと5人組グループを結成して、活発な演奏活動を広げることもした。

ところで面白いことに、私たちのグループの名前はなかったのだ。昨日は「アカシア」であって、今日は「クリスタル」という式で、メンバーの気分のままチーム名称を変えたりした。

私たちは、養老院や孤児院を訪ねて行って慰問公演を繰り広げたし、校内サークルであるRCT、MRA(道徳再武装運動:Moral Rearmament)、ガールスカウトなどの招待を受けて、きれいな和音を入れることもした。私たちのグループの「名声」は口から口へ広まった。

    (注)RCT: サークルについて不明

そのようなある日、近隣の男子高等学校で祭りの時、特別ゲストに私たちを招待するというではないか、胸がむやみにときめいた。

当時、私たちの5人組グループ・メンバーは、私をはずしてみなスマートで美しかったが、特にピアノを担当した友人は「絶世佳人」というに値するほどの美女であった。

講堂をいっぱい埋めた丸坊主の男子学生の視線が、ピアニストに集中したことは自然の「摂理」であった。

だが、順序に従い、私が独唱を終わらせた時状況は逆転した。思いもよらぬ度外れた歓呼と拍手喝采の中で「アンコール、アンコール」の要求がとどまるところを知らなかった。その時から、私は男子学生が「よそ見」しないように、彼らの目と耳をぎゅっとつかむのに成功した。同じ年頃の少女たちに認められた私の歌が、少年たちにも通じる可能性があることを確認した貴重な舞台であった。

私は歩くのが好きだった。高3の時まで地下鉄があることも分からないほどだ。バスもほとんど利用することがなかったので、バスに乗るたびに友人にバス料金を確認しなければならなかった。

登下校するたびに、必ず通り過ぎなければならない三角地(삼각지)陸軍本部近くの街路樹の道を私はとりわけ好んだ。帰宅途中に、友人とともに小道に沿って歩きながら楽しんだ「カバンかつぎ」は、今でも鮮やかに目に浮かぶ。

ジャンケンに無性に強い私なので、友人が私のカバンまで持たなければならない場合が大部分だったが、たまたま私が友人のカバンを持つことになる時は、(さらに)カバンの一つ持つことで恥ずかしい思いを受けなければならなかった。

ひとまず私は、二つのカバンを開きあけて中身をみな取り出した。それから教科書や辞書、重い参考書などをカバンの一つにまとめ入れて、こわれやすい物や軽い物などで、他のカバンの一つを満たした。

その次の段階は、「投げること」の連続だった。力いっぱい手前にバッグを投げては取り・・・

ある日のこと、通りすがりの黒人兵士の一人が痛ましく見えたのか情けないと感じたのか、つかつかと大股で近寄ってカバンの二つを持ってくれたこともあった。

1年生の2学期末から、私は絵にすっかりはまった。だいぶ素質があるように見えたのか、美術の先生は学校付近の画室を推薦してくださった1年と一学期をさらに通ったから、かなり長い期間を染料の臭いの中で送ったわけだ。

父は、私が絵に没頭することがやはりとても不満だった。「お前はやれという勉強はしなくて、よりによって『芸人』、でなければ『金稼ぎ』か」といって、筆や染料を目につき次第なくしてしまった。

母はそれでも「あなたが、そんなにもしたいのであれば...」といいながら、父にこっそりとアトリエ(画室)の登録費や美術道具代を渡してくれたりしたが、結局父の厳しい反対で画家の夢は中途で放棄するほかなかった。
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2013年11月23日土曜日

三段バラ

三段バラといっても、3段腹ではない。韓国料理の石焼き生三段バラ(サムギョプサル)を、いつもの教室仲間たちと新大久保に出て楽しんだ。

実は今日、教室が休みという連絡が事務局からあって、先に新大久保に出かけていたメンバーから誘いをいただいた・・・教室は休みなんだから、行かねばならない、食べねばならない。

みなと落ち合い、CD・書籍ショップ(コリアプラザ)に寄り、小冊子の「ちょっと気になる  韓流[ネット]用語99選」(KEJ)を入手した。本冊子はどちらかというと、流行語でしかも意味を圧縮したような略語の解説集だ。
例えば次のような紹介がある、「ベイグルニョ(베이글녀)」 = 「베이비(baby)」+「글래머(glamour)」+「녀(女性)」というわけで、「ベーグル女」ではない。「ベイビーフェイスにグラマーな体つきをした女性」を指すという具合。SBSのテレビドラマ「僕のガールフレンドは九尾狐」でキュートな女性(狐の化身)役をしたシン・ミナなどがあたるそうだ。

同じ系列店の伝統工芸品・化粧品ショップ(仁寺洞)にも寄って、正月の子ども遊びの「ユンノリ(윷놀이)」の遊具を求めた。Wikipediaにも解説があるので、参考にして遊んでみよう。
ちなみに、イ・ソンヒの思い出に次のような一説がある。
「(祖父は)田舎の家の裏庭にある竹で『洞箫(퉁소)』(尺八に似た笛)も直接作ってくれたし、クヌギの木で手作りで『ユッ』(小ちいさな丸い棒切れを割って作る四本一組の遊戯具)も切ってくれた。」
・・・ここでいう、「ユッ」は「ユンノリ」の「ユ」である。

さて、新大久保巡りのしめとして、家庭料理の店で、石焼き生三段バラ、ニラチヂミ、チャプチェなど旨い食事をした。腹いっぱいになって、おかげで、普段とは違ったいろいろな話をすることができた。急に教室が休みになったお蔭かもしれない。

2013年11月22日金曜日

顔の識別

元来、記憶力が良い方ではないが、女優の顔の識別ができなくなった最初は随分昔のこと。テレビコマーシャルなどで見るほどの関心でしかなかったのだが、「原田知世」と「石田ひかり」のお二人がだぶってしまい、どっちがどっちなのか・・・というほどに曖昧になってからだ。

その後、新しいタレントたちに興味もなく、始めから覚えようという気もしなかったところ、とうとう最近になって、AKBのメンバーが全く判別できない・・・というより、彼女たちの歌っている番組も見たことがないのだが。意図的に見ないのではない。見ようという気力がなく、意欲も湧いてこない。それを惜しいと思うこともなくなっている・・・。

ところで、AGF「ブレンディー」のスティック・コーヒーのCMに、秋の紅葉を背景に、大人と子どもの女性が語り合うものがある。(Youtubeに登録者へ感謝)
大人の味である「コーヒー」の「濃い」と「恋」を掛け合わせるのだが、ふんわりした間合いがいい。その大人の女性が、調べてみれば原田知世だった。CF全体のバランスをとるように、ひょうきんな終わらせ方も、彼女の清潔感と合っているようで面白い。

原田知世は、イ・ソンヒと歳の差が3歳なので、近頃の女優さんは若い。

2013年11月21日木曜日

2013年流行語大賞ノミネート

今年も流行語大賞の発表時期(12/2)になり、昨日、50語の候補が発表された。その中で、だいたい知っているもの(○)、聞いたことはあるが内容を知らないもの(△)、聞いたこともなく知らないもの(×)に分類したら次のようになった。
聞いたこともなく知らない流行語が多いのに驚く。若者言葉に関心ないからか、そもそも世間に疎くなったからか・・・過去に大賞になった言葉も忘れているし。

そんなこんなで、言葉の感度もあてにならないが、私としては<流行語>として、「今でしょ」を推してみたい気がする。

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○: だいたい知っている ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 30
△: 聞いたことはあるが内容を知らない ・・・・・   3
×: 聞いたこともなく知らない ・・・・・・・・・・・・・ 17

○ PM2.5/   △ NISA(ニーサ)/   × 母さん助けて詐欺/   ○ 弾丸登山/   ○ 美文字/   ○ DJポリス/
× ななつ星/   ○ パズドラ/   ○ ビッグデータ/   × SNEP(スネップ)/   ○ ヘイトスピーチ/
△ さとり世代/   × ダークツーリズム/   △ ご当地電力/   ○ ご当地キャラ/   × こじらせ女子/
○ 富士山/   × 日傘男子/   × バカッター/   × 激おこぷんぷん丸/   × 困り顔メイク/
× 涙袋メイク/   ○ 倍返し/   ○ 今でしょ/   ○ ダイオウイカ/   ○ じぇじぇじぇ/   × あまロス/
○ ビッグダディ/   ○ ハダカの美奈子/   ○ ふなっしー/   ○ フライングゲット/   × マイナンバー/
○ NSC/   ○ アベノミクス/   ○ 3本の矢/   ○ 集団的自衛権/   ○ 特定秘密/   ○ 汚染水/
○ ブラック企業/   × 限定正社員/   ○ 追い出し部屋/   ○ ナチスの手口に学んだら/
○ ネット選挙/   × アホノミクス/   × 引いたら負け/   × 二刀流/   × スポーツの底力/
○ シライ/   ○ お・も・て・な・し/   ○ コントロールされている(under control)
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2013年11月20日水曜日

大衆音楽家に対する勲章

韓国の国内に限ってのはなし。文化体育観光部が選定する文化芸術賞の最高勲章に金冠文化勲章があるが、その他に銀冠文化勲章などがある。歌謡界に対する国の評価につながるとして、SBSニュースの記事「[取材ファイル] チョー・ヨンピルがなぜ銀冠文化勲章か?」(11/19、クォン・ジョンオ記者)は、次のように言及している。(抜粋)

(本ブログ関連:”勲章”、”韓国ギャラップ”)
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・・・今年は、現代美術の巨匠であるイ・ウファン画伯が金冠文化勲章を受賞しました。

・昨日、大衆文化芸術を導いた4人が銀冠文化勲章を受けました。「歌王」チョー・ヨンピル(63)、「喜劇界の大物」ク・ボンソ(87)、「国民俳優」アン・ソンギ(61)、「韓国最高のディーバ(歌姫)」パティ・キム(75)です。4人はこれ以上説明が必要ない大衆文化芸術界の巨木です。政府が彼らに銀冠文化勲章を授与したのは、それなりの原則と基準に基づいたものでしょう。それでもなぜか残念な気がするのは私だけではないでしょう。純粋芸術の側から、すでに多くの金冠文化勲章受賞者が出てきました。大衆芸術の中でも、映画側は故ユ・ヒョンモク監督とイム・グォンテク監督がこの勲章を受けました。しかし、大衆音楽家が最高等級の勲章を受けたことはまだ一度もありません。

・1979年​、世宗文化会館は、国内の大衆歌手に公演会場を貸さなかった反面、フランスのシャンソン歌手サルヴァトーレ・アダモには貸館を許して、大きな批判を受けたことがあります。20年が過ぎた後も、大衆音楽を軽視する風潮は大きく変わらなかったのです。
1989年には、パティ·キムの「デビュー30周年公演」が開かれることになるとすぐに、世宗文化会館諮問委員の2人が辞退したりもしました。「歌手の公演は、体育館でしなければならない」という、大衆歌謡に対する侮辱の発言まで出てきました。・・・

・・・これまで大衆音楽への貢献を考えると、チョー・ヨンピル、イ・ミジャ(2009年、銀冠文化勲章受賞)、パティ・キムは、金冠文化勲章を授与されても全く遜色がないというのが私だけでなく多くの人々の考えでしょう。特にこの中でも、「歌王」チョー・ヨンピルの場合には、異論の余地がないと思われます。40年超えて数多くの国民の愛唱曲を発表し、ジャンルを越えた優れた歌唱力を披露しました。
2008年、世論調査専門機関である<韓国ギャラップ>が、建国60周年を迎え、全国民の世論調査をしました。そのとき私たち国民が最も好む歌手でチョー・ヨンピルが25.7%の支持を得て1位、続いてイ·ミジャ(2位、17.7%)、パティ・キム(5位、6.6%)がつづきました。特に、チョー・ヨンピル氏は、今年発表した19集「ハロー(HELLO)」を介して前の世代とのコミュニケーション(疎通)が可能な新しい音楽を試みながら、大衆音楽界の新しい反響を導き出したし、還暦が過ぎた年齢でも絶え間ない努力とチャレンジ精神で、国民の手本となるに十分でした。・・・大衆音楽も文化の大きな軸です。大衆音楽、歌手に対する政府の前向きな認識の転換が必要なときです。      
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2013年11月19日火曜日

イ・ソンヒの「恋文」

週刊誌(週刊新潮)で、先月19日に作家の連城三紀彦氏が亡くなったと知った。直木賞受賞の「恋文」(1984年)に接したとき、文学音痴の私は、大人の恋愛小説といえば吉行淳之介のイメージしかないので、その延長で読んだ覚えがある。どちらかといえば、ラジオドラマにしていいような雰囲気で、ちょっと女性的な感じのする作品集だったと記憶する。

    (注)「恋文」が直木賞受賞した1984年、イ・ソンヒが江辺歌謡祭で大賞受賞して世に登場した。

イ・ソンヒに7集所収の「恋文(연서)」(1991年、作詞イ・ナムギ、作曲キム・ジンリョン)がある。こちらは、歌の主人公が想っているよりも、う~んと若い恋の歌だ。旋律の心地よさに何度かこのブログにとりあげた。

(本ブログ関連:”恋文”)

(Youtubeに登録のlys2187に感謝)

2013年11月18日月曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 晩秋

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(11/13)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第31回として、「晩秋(만추)」について紹介した。

まず、高麗時代末期の懶翁(나옹)禅師(1320年~1376年)の詩について、次のような紹介から始まった。
・「広大な畑が欄干の前に開けている。四季折々、きれいな風が玄琴(コムンゴ、거문고)の音を運んでくれる。ぎっしりと並び、風の意を受けて、その影が庭を掃いても、埃はそのままだ。」
澄んだ月の光に、庭に垂れ下がった竹の陰が風に揺れている様は、まるで庭を掃いているように見える。
・風が少し吹くだけで、紅葉が頭上から舞い落ちる。昔は、竹を編んだ箒で庭掃除をした。

▼ 「掃葉山房(소엽산방)」中の「トドゥリ(도드리)」を聴く。秋晴れのした、<落ち葉がたまった庭を掃く人が住む山の家>には、葉が揺るりと舞いつづける・・・ようだ。

次に、朝鮮時代の申光洙(신광수、1712年~1775年)の詩について、次のよう説明された。
・秋の月の光を見ると、どこか物悲しい中にも、心が洗われていくようだ。こうした、晩秋の趣を表現した曲の一つに「關山戎馬(クァンサンユンマ、관산융마)」ある。
「秋の川は寂寞とし、魚さえ寒い。人々は西風を受けながら、仲宣楼(チュンソン楼、중선루)に登っている」から始まるこの歌は、申光洙が、科挙試験の際に書いた詩「登岳陽樓歎關山戎馬(등악양루탄관산융마)」を元にしている。科挙試験で2位となったこの詩は、歌として現在に伝えられる。
・この申光洙の詩は、中国唐代の詩人杜甫が、洞庭湖を見渡す岳陽樓に登って書いた詩「登岳陽樓」をモチーフとしている。「登岳陽樓」に登場する、岳陽樓や洞庭湖は瀟湘八景に数えられ、絶景とされる名勝地だ。美しい風景を前に、感嘆よりも切ない思いが先走る。杜甫は、故郷での戦話を思い出し、心を痛めたという。

▼ 詩唱「関山戎馬」を聴く。杜甫「魚龍寂寞秋江冷」、申光洙「秋江寂寞魚龍冷」・・・寂寞の様を朗詠する。

最後に、「雉鷄米(チゲミ、치계미)」の宴について次の通り解説された。
・物悲しさと華やかさが共存する、短い秋が終わると、すぐ厳しい冬がくる。昔は、貧しい人や、体の弱い人に辛い季節だった。人々は冬を前に、村の年寄りを招き、養老の宴の「雉鷄米」を開いたという。
・雉鷄米は元々、地方長官に当たる使道(사또)に出されるおかず(賄賂の意)をいう。村の年寄りを、使道のように、接待しようとする意が込められている。貧しくて、雉鷄米に米一粒も出せない家は、「溝鍋(トランタン、도랑탕)」という鍋を出した。その名は、立冬の頃、ドジョウが冬眠のため、トランという細い溝に隠れるので、掘り返してドジョウを捕え、ドジョウ鍋を出したことに由来する。

▼ 「世界で最も美しいものたち(세상에서 아름다운 것들)」を聴く。秋の映像を想わせる・・・今様である。

旧石器時代の人骨

昨晩、NHK教育TVの「科学番組「サイエンスZERO」は、日本国内の旧石器時代の人骨発見について、新しい情報をもとに、次のように紹介した。先日の市民向け公開講座を聞いたばかりなので興味深かった。

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・日本は(火山灰による)酸性土壌が多く、旧石器時代の(リン酸カルシウムが主成分の)人骨は溶けて発見できないが、縄文時代の人骨は、(カルシウム成分が溶けた)アルカリ性の環境の貝塚で多数発見されている。
・ただし、沖縄県の港川(石灰石採石場で発見された、約1.8万年前の「港川人」)の人の骨格が旧石器時代のものとして、従来から知られている。
・また、沖縄地方を除いた旧石器時代の人骨は、静岡県の(石灰石採石場で発見された約1.8万年前の「浜北人」)が知られている。
・今回、沖縄県石垣島の新石垣空港の建設敷地内で発見された、旧石器時代の人の骨格で、国内最古の約2万年前とされ、その発掘現場が紹介された。
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時間のスケールを考えると、何かの結論を出すのは慎重でなければならないだろう。研究者の方が、事実を一つ一つ積み重ねていくという風に語っていた。考古学はサイエンスだと思う。

(本ブログ関連:”旧石器時代の野川流域から見る”)

2013年11月17日日曜日

地震が・・・

先週の日曜日(11/10)に地元で震度3であった地震(震源地:茨城県南部、震度5弱、地震規模M5.5)から、ほぼ一週間たった昨晩(11/16)にも地元で震度2の地震(震源地:千葉県北西部、震度4、地震規模M5.4)があり、今日に日を越えたばかりの真夜中00:50にも揺れが続いた。

地震は慣れるようで慣れるものではない。それが続けば次第にストレスがたまる。わずかな揺れでも、どう変化するか知れず、慌ててストーブの日を消す。万が一、ストーブの火をつけたまま家が倒壊したら、火のついた家屋の下敷きになったらと想像するだけでも恐ろしい。

どうして気にするのかといえば、本日00:50の千葉県北西部を震源とする地震(規模M4.2)により、地元の震度1にもかかわらず・・・2階の棚に立てかけた携帯ラジオが転がり落ちたのだ。置き方が微妙だったかもしれないけれど、何ともいやな予感がする。

震源の茨城県南部と千葉県北西部とは、素人に見当がつかないが、地質学的にどういう関係にあるのだろうか、別種の構造・メカニズムなのか、それとも同種なのか知りたいところだ。といって、それが分かったからどうなるものでもないが。

2013年11月16日土曜日

(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「4.頻繁な転校と、『病気っ子』といわれていた国民学校(小学校)時代」

先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第4回目をここに載せたい。感謝。
イ・ソンヒの小学生時代の音楽経験について、例えば学芸会的なこと、子供向け音楽コンクール公開放送への出場など・・・知りたかったことだ。それに可愛い片思いの話も。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)


[4] 頻繁な転校と、「病気っ子」といわれていた国民学校(小学校)時代
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1972年3月、私は(ソウルの)城北区新洞国民学校に入学した。戸籍上、6歳であったから他の人々より2年先に学習の道に入ったわけだが、その時の私の本当の年齢は9歳だったので、むしろ一年遅れたわけだ。とにかく、私にとって国民学校への進学は以後度重なる「転校」の開始だった。

    (注)年齢はすべて「数え年」

しばらく「留まった」学校でなく、それでも「在学」したと話せる学校を取り出せば、新洞、論峴、敦岩、梨泰院国民学校などだ。卒業証書を受けたところは、5年の2学期のときに転校した梨泰院国民学校だ。

    (注)イ・ソンヒは父親に従って「国民学校だけ六ヶ所を転々と移り渡った。」(第3回 参照)

私は国民学校の時も、やっぱり同年輩より体つきが小さかった。6年を通して背番号の1番は私の一人占めだった。背のせいで運動場の朝会のたびに、最前列で先生と向かい合い、緊張の中に立ち続けねばならなかった。

ニックネームも「ヤマコ(『ちびちゃん:コマヤ꼬마야』を逆に)」、「テチュッシ(ナツメの種 대추씨:小柄ながらたくましくがっちりしている)」、「ちび(ジュイバンウル 쥐방울:不釣合に小柄)」など超小型だった。6年生になっても大人(?)と見違えるほどの3年生の後輩たちに「や~、~(し)よう」調のぞんざいな言葉にあう侮辱を受けたりもした。

私は背中に背負われるのにとてもなじんだ。母に背負われて登下校する姿が気の毒に見えたのか、体の大きな子供たちが時おり私を背負ってくれたりもした。

幼い頃から体が虚弱な方だった私は、体育の時間になると教室に残ったり、運動場のかげに座ってじっと見守ったりした。先生や友達に最初から「病気っ子」とつけられた私は、休みのたびに田舎で飛び回りながら体力を固めた後でも依然として、「病気の人、手をあげなさい」といえば、「この子で~す」と子供たちに指摘される「慢性患者」になってしまった。体操着に着替えるのもわずらわしいので、とても幸いなことだった。

しかし、よくある軽い病気がちでなく、どうして私が「病気っ子」であることを認めることができるだろうか。私は風邪が流行するたびに、一度も罹らずうつったことがなかった。また、病名は忘れたがかなり深刻な病気にかかった時もあった。国民学校4年生の時だったか、学校で手配してくれた病院でかなり長い間、通院治療を受けたことが思い起こされる。

私は3年生の時、およそ6ヶ月間、ガールスカウトで活動したことがある。

野営生活などを通じて心身を健全にできる良い機会であるとを何度も強調して、両親から入団の承諾を受けたが、内心目的は他の所にあった。

私が目指したのは、隣りのクラスの格好いいボーイスカウト隊員だった。女の子に人気が高かったあの子と自然に親しくなることができる方法は、私がブラウニー(Brownie:ガールスカウトの小学校低学年に相当の部門)になる道だけだった。ボーイ、ガールスカウトの合同集会などを通じて、ある程度その子と近づいたと満足していた頃、その少年はある日突然転校してしまったし、私の「第1の目標」が視野から消えたので、何の未練なく幼女隊(ブラウニー)を脱退した。

私は国民学校の時から、歌だけはどこの誰にも引けをとらなかったと自負する。

どんな場所でも歌を歌えといわれれば、遠慮したりとか、後の方をはずすことが一度もなかった。 かえって、「歌を歌うに値する場所はないのか」といいながら、ここかしこをのぞき込むほどだった。

いつだったか、国語の教科書に出てくる「森の鍛冶屋」という演劇をしたことがあった。各クラスを回っていた一種の「巡演」であったが、私が引き受けた配役は「スズメ」であった。理由はただ一つ。スズメ役の台詞部分が歌になっていたためだ

一人でも歌うことができる歌、二人でも歌うことができる歌、多数がまじり合っても歌うことができる歌、そして歌が私になり、私が歌になる歌... 私はいつもそのような歌を歌いたかった。

「イ・ソンヒは歌が上手だ」といううわさは全校に広がったし、ある日、担任の先生がTV子供童謡大会に参加してみることを薦められた。それは4年生の時だ

私は、「森の中の鍛冶屋」の演劇公演で「スズメ」に扮装して歌ったまさにその歌を歌って、KBS TV の(公開放送)「誰が誰がお上手か(누가누가 잘하나)」の1次予選を軽く通過した。

自信を得た私は、2次予選では歌の小節小節ごとに「雰囲気(멋)」をいっぱい入れて歌った。結果は脱落だった。私は今でもその時、情熱をつくして「童謡らしく」歌ったと信じる。国民学生があたかも「子おとな」のように童謡を歌謡調で歌って審査委員を当惑させたという話も聞いたが、私の胸の内はそうでなかった。もう少し上手くしようと、自ら「技巧」を働かせただけだった。とにかく当時の「予選脱落」は、私にとって大切な経験だった。「二度と上っ面だけのふりはしないだろう」。
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2013年11月15日金曜日

イ・ソンヒの「なくしてしまった約束」

今となっては古風な曲調であるが、イ・ソンヒの3集に収められた1曲目の「なくしてしまった約束(잃어버린 약속)」(1986年)は、デビュー2年目の若さ溢れた彼女らしい張りのある声で力強く歌う。

秋に葉が落ちるのを見て、ふと気付くのが人生なんでしょうね・・・寒さが一層つのります。


なくしてしまった  その約束を  ふたたび探せるなら
消えてしまった  愛の花火を  すべて燃やせても

再会の  ちぎりもなく  私たちはそんなに背を向けて
今日も  懐かしさに  胸を焦がしてこの夜を明かす

愛  それは第二の生命(いのち) 誰にも与えられないもの

ただ  あなたにだけに与えたいもの  そして受けたいもの


(Youtubeに登録のsun5054に感謝)

2013年11月14日木曜日

頭痛薬

風邪のせいか、気圧の変化のせいか、頭がズキズキする。鎮痛剤を飲めばすぐに治まるのに、このときばかりなぜか、やせ我慢する。そして、耐え切れなくなって棚から薬を探し出すことになる。

飲むのは頭痛薬の「ノーシン」だ。それも、昔からの散剤(紙に包んだ粉末薬)である。同じノーシンでも錠剤の方はダメなのだ。わが家の常備薬であった散剤の方でなければ効かない。分かっているが、多分に心理的な効果もあってのことだろう。

ここ数日の寒さは、「12月上旬から下旬並み」という。まるで、映画「デイ・アフター・トゥモロー(The Day After Tomorrow)」のように、飛行中のヘリコプターにいっきに氷が張り付くような厳しさを想像する。慣れれば別だろうが、まだ「しばれる」感じだ。

NHKとBBCが共同制作した、自然ドキュメント番組「フローズン・プラネット」で、南極の浅海に氷柱ができ、それがやがて海底を這う現象である「Brinicle(ブライニクル)」(「死のつらら」)を見たことがある。ヒトデなど海底生物が氷漬けされていくさまは、見ているだけで恐ろしい。氷漬けされたら、頭がジンジンしてきつかったことだろうと思った。(ところで、棘皮動物のヒトデには頭はないようだ)

2013年11月13日水曜日

イ・ソンヒの「ピーターパン」を見た思い出(ソヌジョンア)

イ・ソンヒは数々のミュージカル舞台に立ったことがある。「オズの魔法使い」(1990年)の主人公ドロシーや、「ピーターパン」(1991年)の主人公ピーターパンなどを演じた。子どもの頃に母親と一緒にその舞台を見たという、女性シンガーソングライターのソヌジョンア(28、선우정아)とのインタビューが、ブログに掲載されている。中央日報のイ・ギョンヒ記者が、同紙の記事から溢れた内容をブログに書き記したものである。

(本ブログ関連:”ミュージカル”)

ソヌジョンアについては上記ブログで知ったわけだが、ここでは彼女がイ・ソンヒについて語っている部分だけ次の通り抜き書きする。感謝。
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7才の時、「ピーターパン」のミュージカルを見た。世宗文化会館の大劇場にそうそうたる人々が出演した。イ・ソンヒがピーターパン(役)だった。母に、「ピーターパンは男性なのに、なぜ女性がするの?」と尋ねたところ、イ・ソンヒファンだった母は、「韓国で歌が最も上手な方だからなのよ」とファンの心いっぱいの答えをした。衝撃だった。どんなに達者に男性を追い抜いて、男性の役ができるかと思って。ワイヤーに乗って飛び回るのも素晴らしかったし、私もあの人たちのように音楽の中で生きたいと考えた。おもしろいことに、この前イ・ソンヒさんから連絡が入った。私のアルバムを聞いてみて、おもしろいとフィードバックをくださったのだ。普通は、音楽を聞いて連絡する方が多かったが、私に妖精と同じ、この世の人とは感じられない方であったが・・・電話を受けると正気でおられなかったよ。
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2013年11月12日火曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 オンドル

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(11/6)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第30回として、床下暖房の「オンドル(溫突、온돌)」について紹介した。

まず始めに、寒い冬に床下から部屋を暖めるオンドルについて次のように紹介した。
・11月に入り急に朝の空気が冷え、本格的な冬を思う・・・明日(11/7)は冬の始まり「立冬」だ。零下20度近く下がる極寒の冬が来る。
・この時期、韓国ではオンドルが重宝される。最近は床が均一に温まるが、昔は火元に近い床の「アレッモク(아랫목)」が、家中で一番温かい場所だった。昔の田舎では、飯を遅くにも温かく食べられるよう、ふた付き鉄製の器に入れ、アレッモクに敷いた布団の中で保温した。また明け方に冷めた床を暖めるため、おばあさんが早朝火を入れる光景も見られた。人々は、こうした温かい部屋で二日ほど休むと「これまでの積み重なる疲れも飛んでいく」とよく言う。

▼ 家の敷地を司る、成造神を称える南道民謡「城主祭歌(성주풀이)」を聴く。新築、転居のとき、家族のために巫堂(ムーダン、무당:シャーマン)を呼んで祓った際の歌が起源という。張りよくテンポよく聞こえる・・・Youtubeでイ・ソンヒは民謡三曲のニ番目で勢いよく歌っている。

次に、オンドルの構造と歴史、普及に関わった木こり歌について次のように解説された。
・韓国固有のオンドルは、料理の火を利用して室内まで温める実用的な暖房器具と言える。焚口から、煙突まで、熱い煙が通る道を作り、その上にオンドルの石を並べる。オンドルの初期、4世紀頃は、室内に並べた石は二列ほどで、部屋全体を暖める方式ではなかった。高麗時代に入り、部屋全体を暖める本格的なオンドルになった。
古くは、垂れ幕のあるベッドや椅子を用い、部屋の中でも靴を履いた生活だったが、オンドルで、韓国人の生活が変わった。17世紀、世界的に急激に寒さが厳しくなったといわれ、韓国中にオンドルが広まった。家々で火を焚くため、木の枝が大量に必要となり、木こりたちは厳しく寒い山中に、薪集めに行った。こうしたハン(恨)が込められた木こりの歌が多く残されている。

▼ 慶尚北道の木こりたちが木を切りながら歌った「オサヨン(어사용)」を聴く。歌声から労働の場面を想像して・・・どのような地形で、何の木を、どんな道具で、独り或いは仲間と切ったのか気になる・・・それにしても、厳しい思いがこもる歌だ、独り歌だろうか。

最後に、七佛寺の亜字房のオンドルと、今なお続くオンドルについて次のように説明された。
・オンドルの機能を果たすため、石の配置など知恵が必要だ。慶尚南道の河東地域にある七佛寺(칠불사)に亜字房(아자방)の部屋がある。亜字房は石の並びが「亜」の字に配列した、一度火を入れると100日間も温もりが残ったと伝えられる。
・近年の100年余り、生活や文化が洋風化する中、伝統を守っているのがまさにオンドルだ。家族がひとつの部屋に集まり、ぴったりくっついて温まった、そんな古き時代のよき思い出を、体で覚えているからだろうか。

▼ 済州島に伝わる子守唄「ウォンイチャラン(웡이자랑)」を聴く。家族の温もり・・・う~ん、今様の「島の赤ん坊(섬집아기)」などとは随分違うけど、子どもには母や祖母の声と「手の温もり」が一番なんですね。なるほど。

2013年11月11日月曜日

東京地方、木枯らし1号

昼間は陽射しが穏やかだったというに、午後も夕方に近づく頃、気付けば窓の外は土砂降りで、止んだと思えば今度は急速に冷え込んできた。足がじんじんと冷える・・・家路も寒さは尋常でなく、まさに冬到来を思わせる。

帰宅して、Googleニュースを見ても、東京地方に木枯らし1号が来たという情報はない。唯一、テレ朝ニュースのコメントに、「東京では11日夕方以降、北寄りの風が強まり、木枯らし1号となるかもしれません。」とあるのみだ。

体感は、まさに木枯らし1号といってよく・・・それほどの冷え込みと風の強さだったのだ。

ちなみにネットには、「東京地方の木枯らし1号」(気象庁天気相談所)の記録があって、昭和26年以降の木枯らし1号到来日を一覧することができる。過去10年間について、ざっと見渡せば次の通り・・・今日あたり、わるくないと思う。
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2003(平15) 11月17日
2004(平16) 11月13日
2005(平17) 11月12日
2006(平18) 11月12日
2007(平19) 11月18日
2008(平20) 11月01日
2009(平21) 11月02日
2010(平22) 10月26日
2011(平23) 10月26日
2012(平24) 11月18日
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やっぱり、木枯らしだった。

時事通信の記事「東京でも木枯らし1号=昨年より7日早く-気象庁」(11/11、19:33)は、次のように木枯らしが到来したと報じた。(明日は冬物の衣服が必要らしい)
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気象庁は11日午後、東京地方で木枯らし1号が吹いたと発表した。昨年より7日早い。
同庁によると、午後2時54分に最大瞬間風速17.9メートルを記録した。近畿地方では昨年より6日遅い4日に1号が吹いた。
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(本ブログ関連:”木枯らし”)

2013年11月10日日曜日

旧石器時代の野川流域から見る

(後期)旧石器時代に地元野川流域に残された石器や黒曜石を通して、日本人類の起源を語る講演があり聴講した。講演タイトルは、「旧石器時代の日本列島 - 野川流域から日本人類史の起源を考える」で、講師は安蒜政雄(あんびるまさお)明治大学教授である。

6万年前にアフリカから世界に拡散した私たちの祖先は、4~3万年前に日本列島に至ったといわれていることから、野川流域の旧石器人(3.5万年前~1.5万年前までの間)は相当に古いひとびとといえるようだ。

この4万年前(日本列島到着)と3.5万年前(野川流域定着)を比べると、5,000年の差しかないように考えてしまうが、つまり私たちの2,000年の歴史と比べて時間オーダーが極端に大きな時の流れであり、しかも証拠は石器しかない。いろいろとイメージが膨らんでしまい、素人には楽しいことだが。

関東地方を含めて日本は火山国のため、旧石器時代の証拠物は石器しか残ってない。他の有機物は火山灰地により一切溶けてしまっている。そんな中で、石器が見つかった地層に依ったり、石器の分布に依ったりして、旧石器時代の集落や人口の規模を想定されるという・・・ただし、生活や移動がどうであったか検証が必要。
また、産地がある程度限定される石材の黒曜石の地域間移動が分かっており、ひとびとの交流が想像されるという。さらに、野川流域の石器(石斧)、黒曜石を使った複数の特性から、他の周辺地域と比べて日本独自の性格を持っているという。

発見された遺物から歴史上の想定が語られたが・・・最後にいろいろな視点や解釈も含めて、会場とのQAがあった。
それらを聞いて、確かに2,000年前の歴史でさえ物証は完全ではないのに、旧石器時代の石斧など限られた遺物から、3.5万年前~1.5万年前までの2万年の間の歴史を語るのは容易なことではないだろうと感じた。

歴史は時間だけでなく、空間の流れでもある。会場で求めた、安蒜政雄氏の著書「旧石器時代の知恵」を読んで復習してみよう。

常々思うことがある。歴史の中で個人は小さいけれど、仮に4万年前の私の祖先が子孫を残す前に、何かのことで亡くなっていたら、私は今いないのだ。命は連鎖する。それも際どい偶然のおかげで。

2013年11月9日土曜日

(資料)一乗宗

▼ Daum知識(2006.2.2)のQAに、韓国仏教宗派の質問中に「一乗宗」について次のような回答がある・・・この記述は、K-Wikipediaにリンクされている。
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25.大韓仏教一乗宗
韓国の法華信仰系統仏教宗団。
1968年2月 法華宗で崔恵正が一乗宗団を創設。
1969年1月 大韓仏教一乗宗布教院で文化公報部に仏教団体登録。
1973年 大韓仏教一乗宗に改称。「妙法蓮華経の会三帰一思想と大乗菩薩行をそれぞれ『体』と『用』として国を守って広く衆生を済度する」を宗旨としている。
所依経典は<妙法蓮華經>で、本尊仏は釈迦牟尼仏。
本寺は、ソウル特別市城北区城北洞にあって、宗正は権梵虎だ。
教勢は、1988年現在、寺院455ヶ所、僧侶536人、信徒16万3,332人。
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▼ (次のソースは過激なため要注意!・・これについて未だ確証を得ていない)
仏教と巫俗の習合という観点から、一乗宗と巫堂(ムーダン、무당:シャーマン)の関係について批判的なコメントがある。(アンチニュース

一乗宗 自身によるによる巫堂(무당)についての解説。
http://www.ilseung.or.kr/bbs/board.php?bo_table=qna&wr_id=70&page=3


(本ブログ関連:”一乗宗”)

2013年11月8日金曜日

イ・ソンヒの「冬哀傷」

名曲とは不思議なもので、イ・ソンヒの「Jへ」は作者がその曲の扱いに苦悶していたときに偶然出会ったことによるし、また5集所収の「冬哀傷(겨울 애상)」(作詞:キム・ヨイル作曲:ソン・シヒョン、1989年)は思いもかけないかたちでできあがったものだ。

(本ブログ関連:”冬哀傷”)

この時期になると、美しく透明感のある「冬哀傷」の余韻にひたりたくなる。

星明かりに澄み映える  私の悲しい顔よ
雁が鳴きながら  飛び去る  空を  見る

懐かしさ雪のように積もり  丘を転がり超えて
青い月明かり  降り注ぐ  私の空っぽの  庭に

風は木の葉を 吹きたてて  消えたが
なぜ痛く懐かしい小船は  私の胸に浮かんでいるのか

消すことが  できないのか
冬になるとよみがえる姿

青く冷たい  私の愛
凍ってしまった悲しい後姿

風は木の葉を 吹きたてて  消えたが
なぜ痛く懐かしい小船は  私の胸に浮かんでいるのか

消すことが  できないのか
冬になるとよみがえる姿

青く冷たい  私の愛
凍ってしまった悲しい後姿
凍ってしまった悲しい後姿

(Youtubeに登録のKnightmareに感謝)

2013年11月7日木曜日

立冬2013

今日は立冬、暦上、秋分(9/23)と冬至(12/22)の真ん中で、いよいよ冬の始まりである。といって、木枯らしが吹くでもない。(ただし近畿地方では、今月4日に1号が吹いた)
暦に知る季節なわけで、実感が伴わない・・・と思ったら、Weathernewsの天気予報(ピンポイント天気)で、当地辺りも明日以降、木枯らしの可能性があるという。なんだ、冬はすぐそこに来ている。

ところで本日午後1時14分(日本時間)、カザフスタンのバイコヌール宇宙基地からソユーズTMA-11M宇宙船に乗り、JAXAの若田光一宇宙飛行士(50)が、国際宇宙ステーション(ISS)に向けて飛び立つ。来年の5月14日頃まで、約6ヶ月のISS滞在とのこと。

JAXAの「ISS第38次/第39次長期滞在概要」に次のように説明がある。
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・第38次/第39次長期滞在クルーとしてISSに長期滞在します。
・若田宇宙飛行士は、第38次長期滞在ではフライトエンジニアとして、ISSの運用、「きぼう」日本実験棟を含むISS各施設のシステム運用、日本および国際パートナーの科学実験をはじめとする宇宙環境の利用に重点をおいた活動などをISSで行います。
・滞在の後半となる第39次長期滞在では日本人初のコマンダー(船長)として、滞在期間中の指揮をとることになります。
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(本ブログ関連:”若田光一”)

2013年11月6日水曜日

発泡にごり酒

先日、寝つきが悪くて、深夜に冷蔵庫の日本酒をお猪口一杯飲んでみたら、意外やぐっすりと眠れた。そうれなら、口当たりのよい日本酒はないものかと近所の酒店を訪れた。

店のガラス張りの冷蔵庫に、日本酒の発泡酒(「神亀純米活性にごり酒」)が見えた。ドア越しにラベルの注意書きを観察すると、詮を開ける際に勢いよく発泡するので開詮を微妙に繰り返し、噴出しに注意するよう書かれていた。面白そう、ということで購入し、家に戻るや早速開詮してみた。

詮をゆるりと開けると、瓶の中を泡が口元まで駆け上がってくる。あわてて詮を強く閉め直す。発泡が治まるまで、それを繰り返して、ようやくお猪口に注ぐことができた。結構手間取る。

元来、酒は強くない。飲兵衛でもない。だから、ほどほどにたしなむ程度なのに、発泡の様子が面白くて、口当たりもよいので立て続けに3杯も飲んでしまった。酔いが次第に廻り、ふらふらしてきた。耳元を血流がドクドク音を立てる、腕が妙にピリピリしてきた・・・ああ、こりやいかん・・・すっかり酔っ払ってしまった。

2013年11月5日火曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 菊花

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(10/30)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第29回として、菊の花(국화)について紹介した。

始めに、秋の花の菊とそれに関わる詩について、次のような紹介から始まった。
・花というと春を思い浮かべるが、秋にも春に劣らず、きれいに咲く花がある。コスモスを筆頭に、オシロイバナや野菊、そして名も知らぬ花たちが力強く花を咲かせ、散った後、目に入るのが菊の花だ。朝鮮後期、李鼎輔(イ・ジョンボ、이정보、1693年~1766年)が残した、菊の登場する次の時調시조)がある。

「菊よ、おまえは、三月の春の風(東風)を過ぎ、/  落木寒天にひとり花を咲かせたのか、/  おそらく、霜が降りる季節に屈しないのはおまえだけだろう。」

・「落木寒天」は、木の葉が落ち、寒くわびしい冬の風景を表す。この時調は、暖かい春の風が吹いても花を咲かせず、寒い冬になるまで待って、さびしそうに、けれど力強く咲く菊の花を歌う。

▼ 平時調(평시조)の「菊よ(국화야)」を聴く。上記詩の一音一音を延ばし朗詠する。夕陽を逆光に揺れる野菊のよう。

次に、李鼎輔の仕事と彼にまつわる逸話が、次のように語られた。
・李鼎輔は、詞のように相手が王であれ、間違ったことには果敢に言上する政治家だったという。
・一方で、音楽にも造詣が深く、上記時調以外に80編を超える作品を残し、音楽家養成にも携わった。弟子に、桂纖(ケソム、계섬)がいた。彼女は、幼くして両親を亡くし奴婢となったが、李鼎輔と出会い、彼を師匠として歌を学ぶ。彼は桂纖の才を見抜き、常に傍に置き指導した。彼女は名唱として名を轟かした。李鼎輔が世を去ったとき、桂纖は実の父の死を前にしたかのようだった。その後毎日、師匠の墓前で泣きながら歌い続け、生涯かけて恩返した。その姿は、晩秋の道端に咲く野菊のようだ。

▼ 新民謡「野菊(들국화)」を聴く。なんだか、野に咲くの花の陽気で力強さを感じる。

最後に、菊を愛でる優雅な光景について、次のように語られた。
・昔から、ソンビ(博識な学者)たちは、菊を、梅、蘭、竹と共に並べ、四君子と呼ぶ。これらは、操と節義を象徴する花とされ、広く好まれ、植えられた。フンタリョン(흥타령)の歌詞に、四君子のひとつ、菊に関する次の一節がある。

「窓の外に菊を植え、菊の下で酒を醸しておいた。/ 酒が熟成し、菊の花が咲き、友人が来て、月が昇った。/ それ、コムンゴを一曲弾け、夜が明けるまで遊ぼうではないか。」

・花もきれいに咲き、さらにその香りまで漂い、友を誘って一杯傾ける光景、なかなか粋である。菊の酒をゆったりと嗜みながら、あれこれ話をする時間、これこそ、至福のひと時と言えるかもしれない。

▼ 「歌詞 勧酒歌(가사 권주가)」を聴く。揺ったりと古色を漂わせるが・・・どこか新酒の香りする。

2013年11月4日月曜日

菊の花

秋の花に菊がある。鑑賞に、一輪もあれば、束ねたものもある。あるいは、更に集めて加工したものもある。歳をとると、それぞれに美しさを気付くようになる。

子どもの頃、連れられて菊人形展を眺めたけれど、小さな菊の花弁を衣装代わりに身に包んで置かれただけの人形を間近に見て、拍子抜けした記憶がある。大人になれば、菊人形師の努力と期待も合わせてうかがえ受容できるようになる。たぶん鑑賞の視野が広がったのだろう。

イ・ソンヒのアルバム9集の一曲目にアルバムタイトルでもある「一輪菊(한송이 국화)」(作詞チェ・ユジョン、作曲ヤン・ムンソン、1994年)がある。群れて咲く野菊とは別に、一輪の菊にも独特の美しさがある。

    一輪の野菊見やれば、貴方の姿を見るよう
    一輪の野菊見やれば、貴方の姿を見るよう
    華やかな姿なくとも  素朴な香りに染まるように
    小さな花瓶の中で一輪の菊  この世の憂いを洗ってくれる
    黄色い花びら差し出した顔  ささやくように愛を語るよ
    一輪の野菊見やれば、貴方の姿を見るよう
    華やかな姿なくとも  素朴な香りに染まるように
    あ~

(本ブログ関連:”一輪菊”)

(Youtubeに登録のKnightmareSMに感謝)

2013年11月3日日曜日

日光鉱山

さすがに11月ともなれば、早朝は冷える。栃木県塩谷郡塩谷町にある日光鉱山へ鉱物採集に出かけるため、始発電車に間に合うよう家を出ると、あたりはまだ暗い。
いつもお世話になっているH氏と待ち合わせの駅に着いた頃は、空も白みはじめていた。さっそく、H氏の車に同乗させていただき現地に向けて出発する。

昨日ネットで収集した産地情報を片手に、車中で鉱物談義する。H氏は、既に日光鉱山の鉱物採集は経験済みで、今回は何としても美しい二次鉱物の斜開銅鉱(Clinoclase、Cu3AsO4(OH)3)を目玉にされている。わたしも、斜開銅鉱に出会えればと、期待が膨らむ。

さて、下流に石積みの砂防ダムを何重にも構築している大きく広がった沢と重なっている、日光鉱山の【南側】ズリから採集を始めた。陽差しが反射してまぶしい。目が肥えてくると、次々いろいろな鉱物が見えてきた。
沢伝いに登ると、せばまった沢の奥には鉄条網にさえぎられて立ち入り禁止になっている。その奥には、ふさがれた坑口や、更に奥に進む沢も見えるが・・・ここまで。この境界辺りでの採集は、極めて残念な結果だった。

いったん道路に戻って【北側】に少し歩み、新たな入り口から山道を登り、斜面の上側に坑口が見える所まで進む。坑口はふさがれていないが、当然ながら覗き見するだけ・・・なにしろ、坑口付近には落盤跡?のような岩が見えるのだから。

以上の結果、採集鉱物は次の通り。
・南側採集地: 黄銅鉱、黄鉄鉱、ブロシャン銅鉱、孔雀石、輝銅鉱、方鉛鉱、閃亜鉛鉱、水晶(小型の美群晶)
・北側採集地: 斜開銅鉱(小片)

日光鉱山の行きも帰りも、国道・県道利用で通したが、休日にもかかわらず渋滞に巻き込まれることはなかった。

2013年11月2日土曜日

日暮れの早いこと、一年の早いこと

夕方というに、ちょいと気を許せば、外はすっかり闇に沈んでいる。帰宅にせわしい街の雑踏も、かえって落ち着きを増すよう。けれども、駅から離れて家路になれば、次第に人影の薄れるのが寂しい。風でも吹けば、否応なしに年末へと押しやられる。

テレビ・ショッピングで、おせち料理の予約受付で豪華?な詰め合わせを説明していた。ハロウィンが終ったと思ったら、あっさり場面転換して、クリスマスそして正月の行事が待っている。

ラジオで聞いたことだが、今年は3連休が多いんだそうだ。10回もあるという。休みが多いからって、それもなんだか・・・気ぜわしいなあ、何かしなければという強迫観念に駆られて、むやみに出かけるのもなあ・・・。

といいながらも、お呼びがかかった石採りに・・・幸い、明日は天気がよいようだ。

2013年11月1日金曜日

VESPA APE50

昔、雑誌に小型自動車の特集記事があって、戦後近くに生まれたさまざまな小型自動車を紹介していた。面白くて興味がそそられ、乗ってみたい気がした。記事を切り取って保存したが、今探してみると見当たらない・・・残念なことをした。

    (注) 小型車といっても、これから普及が試行される「超小型電気自動車」のことではない。

ネットを探してみれば、Wikipediaの「バブルカー」の項に、製造各社の小型自動車の写真が載っている。ヨーロッパで、戦後荒廃した中から生まれた、かつての航空機の技術者たちが関わっている。「バブル」とは、「航空機などの操縦席(コックピット)の風よけの覆い」で・・・つまり「風防」のことで、自動車の運転席の覆いがそれを想わせる構造をしている・・・ということだ。

これらの小型車の中で、わたしのお気に入りは、メッサーシュミット社のKR200(191cc)だ。まさに、航空機に関わった技術者の心意気が感じられる。

そういえば、後発日本のスバル360(360cc)も小型車に属するだろう。製造元の富士重工は旧中島飛行機という航空機メーカーだったわけだし。

今日、イタリア大好きな鉱物仲間から、イタリアのピアッジオVESPA APE50(49.77cc)という小型三輪車を、再生しているという話を聞かせてもらった。1964年に日本に輸入された5台の内の一台だそうで、構造図、配線図などの図面をネット上で探し、一部部品から作って、組み立て直しているというのだ。

    (注) Youtubeの「APE50」(新型のよう)、旧型は2サイクル単気筒50ccだが排気音がいい。(登録者Paulo Cabralに感謝)   赤字訂正
    (注) VESPA APE50が輸入された1964年といえば、イ・ソンヒが生まれた年でもある。
    (注) VESPA APE50は、スクーターのVESPAのエンジンそのままに、車体だけ発展させたもののようだ。

この三輪車、バッテリーがないそうで、スターターは手動、ワイパーは足動というまさにアナログカーである。聞いているだけで楽しくなる。・・・でも、それ以上の技術的なことになると素人の悲しさ、よく分からない、残念。

三輪車といえば、日本のダイハツ・ミゼットD型(250cc)があるが、これも小型車の仲間に入れることにしよう。