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2013年4月29日月曜日

(資料)歌王チョー・ヨンピルと音楽著作権 ①

最近、チョー・ヨンピルの新しいアルバムについて話題が出ている。ところで、著作権問題をチョー・ヨンピルを事例に、デジタルデイリーの記事「【ICT法を正しく知る】 歌王チョー・ヨンピルと音楽著作権 ①」(4/29。キム·ギョンファン弁護士)が記しているので見てみよう。感謝。
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今年は、1967年にデビューした歌手チョー・ヨンピルの45周年だ。1980年代、(ファンによる)「兄さん部隊」を形成し、韓国の大衆歌謡史に一線を引いた歌手チョー・ヨンピル。その間多数のヒット曲を出しながら、同時に多様な音楽実験をした韓国大衆音楽界の生きた伝説。それゆえ歌手の王(歌王)と呼ばれる歌手。
最近還暦を越えた歌王チョー・ヨンピルの、新しいアルバム発売、ショーケース(新曲発表会)、コンサートと、25年前の著作権事情が、シナウィのリーダーのシン・テチョルがあげたフェイス・ブックの文章*のために広く知られて遺憾を醸し出している。その理由を当時の新聞記事および判決文を土台に再構成してみる。

(*:参考) Innolife「チョ・ヨンピル、31曲著作権盗まれ虚脱」(4/20

歌王チョー・ヨンピルは、1976年覚えやすいハスキーボイスでノスタルジックな歌詞が融合した「釜山港へ帰れ」という曲で大衆に広く知られ始めた。その時、歌王は26歳であったが、すでに歌手のキャリアは10年にもなった。高校2年生の時から、米8軍舞台でボーカルグループで活動して発表したこの曲は、曲のタイトルのためか、釜山から旋風的な人気を集めソウルに上陸するようになった。
しかしながら、 「釜山港へ帰れ」という曲は、発表時から著作権紛争を引き起こすことになる。作曲家ファン・ソンウ氏が「地球レコード」、「キング・プロダクション」、「オアシス・レコード」、「ヒット」という4つのレコード会社に著作権を譲渡してしまったからだ。だから、イ・ミジャ、ナフナ、ソン・テグァン、チョ・ギョンス、キム・ヨンジャなど15人の歌手がこの曲を争って歌ってアルバムを出す奇妙な現象も発生した。
チョー・ヨンピルは、「釜山港へ帰れ」を「キング・プロダクション」で出盤(レコーディング)したが、翌年の1977年シン・テチョルの父シン・ジュンヒョンがいる「地球レコード」に移籍することになる。この時から、地球レコード社のイム社長との縁が始まる。

地球レコード社は、その当時の代表的なレコード会社として、チョー・ヨンピルが専属していた1980年代の初めには、イ・ミジャが専属していた太陽音響と共に、最も多くの歌手を抱えていた大型レコード会社であった。今のSM、YG程度に考えると良いだろう。

しかしながら、大衆に知られる前の1972年の大麻事件が後になって問題になって、チョー・ヨンピルの活動は長くは続かず、自粛の時間を持つことになった。だが、1979年末の大麻芸能人の放送活動の規制が解けて、チョー・ヨンピルは、1980年初めにドラマ主題歌「窓の外の女」で再び派手な回復をすることになる。
以後チョー・ヨンピルは、「窓の外の女」が収録された1集を含む2集「ロウソクの灯」(1980年)、3集「赤とんぼ」(1981年)、4集「探せぬウグイス」(1982年)、5集「友よ」(1983年)、6集「涙のパーティー」(1984年)、7集「旅に出よう」(1985年)、8集「虚空」(1985年)までのアルバムを地球レコードで出盤(レコーディング)した。
地球レコードでこのように多くのアルバムが出すことができたのは、歌王チョー・ヨンピルが1977年10月21日から1986年11月30日までの9年間、地球レコードの専属契約歌手だったからだ。

ここでは、専属契約とは、その当時の主流的な契約形態として、レコードやテープが売れるとは関係なく、一定の期間(通常2~3年)の間の専属契約金だけ受ける契約の形態である。この契約形態は、全面的にレコード会社に有利だったが、当時歌手は多く、レコード社が寡占型としても少なかったので、レコードを出さなければならない歌手としてはどうしようもなかった(1983年東亜日報の記事によると、当時、歌手1400人のうち100人がレコード会社専属していたという)。

1981年の東亜日報の記事を見ると、「ディスクとテープが100万枚売れても、チョー・ヨンピルが受けとったのは金で1000万ウォンと乗用車一台という事実は、私たちの歌謡界の不正の一断面を現したのだ」と表現されているので、専属契約の弊害が並大抵ではなかったようだ。だから、トップ歌手チョー・ヨンピルも生活のために夜の舞台に立つ他なかったという。

このような専属契約金(または専属金)は、1985年頃には1億ウォンを超えて、その頃イ・ソンヒは2億ウォンを要求したりもしたが、1987年頃から主流的な契約形態が「印税制」に移ることになる。

1988年の東亜日報の記事によると、専属契約制を選択した人気歌手の場合、2〜3年専属期間に3000万ウォンから5000万ウォン程度の専属金を受けて、逆に印税制を選択すると、アルバム1枚当たり650ウォンの印税を受けるという印税制を選んだ場合、10万枚の販売に5000万ウォン程度の収益が生じる

作曲家ㆍ作詞家の事情は歌手よりもはるかに劣悪だった。1982年の毎日経済の記事によると、1曲あたり1万5000ウォンから2万ウォン程度を受けたという、その事情を知り得た。チョー・ヨンピルのヒット曲である「窓の外の女」の作詞家ペ・ミョンスク氏が受けた金は20万ウォンに過ぎなかった。チョー・ヨンピルが1981年に受け取った金は1000万ウォンだったので、1/50にしかならないレベルだ。

一方、他の歌手のように歌王チョー・ヨンピル側も専属契約が終了する1986年11月30日頃、地球レコード社のイム社長に印税制転換を提案し、1986年12月31日印税制を主な内容とする契約を締結されることになる。

当時の状況について、1987年の京郷新聞の記事によると、「地球レコードと専属契約をしたチョー・ヨンピルは、3年単位の契約を更新してきたが、この間印税制と併用する条件で、1億2000万ウォンを受けたことが分かった」とする。

地球レコード社は、当時の状況を「歌手チョー・ヨンピル氏とは、1977年10月21日から1986年11月30日まで専属歌手制で継続されてきた間、本契約の期間満了前、印税制に転換することにし、これに加え著作権(上記期間中の自作曲:31曲)のみ譲渡を受けることにして、弊社は相当な金額を支払うことで合意したが以後、歌手当事者が自分の著作権一切を譲渡してしまえば、将来の収入が少ないようなので、著作権の一部を譲り受けてほしいと懇請するので、公演権と放送権は歌手に与えて、制作会社としての特性上、複製権と配布権だけ弊社が譲り受けることに譲歩しました(1986年12 31。法律事務所で公証人) 」と述べている(出典:http:// nbbs2.sbs.co.kr /)。

まとめると、チョー・ヨンピルが作曲した31曲のコピー・配布権は地球レコード社が持っていて、公演・放送権は、チョー・ヨンピルが持っているというのだ。そのため、チョー・ヨンピルが自分の曲を複製して発売したり、配布する権利がなく、放送や公演で歌を歌うことができるが、その歌でアルバムやDVDを発売すると地球レコード社に収益が戻ることになる
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