2014年8月29日金曜日
(資料)京郷新聞 1984年「江辺歌謡祭」でイ・ソンヒが大賞受賞した記事
イ・ソンヒが、1984年に「Jへ」で大賞受賞したMBC第5回「江辺歌謡祭」(7月29日)の結果について、「京郷新聞」(7月31日)が報じた記事「若い熱気むんむん『江辺歌謡祭』 - MBC 創作曲・進行手腕目立つ」(【聖】記者)を、NAVER提供の「デジタルニュースアーカイブ」で見ることができる。
7月29日(日)に開催された歌謡祭の結果は、月曜日が新聞休刊だったため、7月31日(火)に掲載されている。
記事の最後に、「李嬢は仏教界に従事する李鐘圭氏(50)の長女。」と記されている。イ・ソンヒが登場した最初から、父親と仏教との関係について知られていたことになる。
(本ブログ関連:”イ・ソンヒと江辺歌謡祭新聞記事”、”NAVERデジタルニュースアーカイブ”)
当時の紙面について
① 使用の文字、記述
・ 括弧書きを” ”ではなく、「 」を使用(横書・縦書き同様)
・ 名前に漢字を使用(例:李文世=イ・ムンセ、이문세)
・ 敬称に「嬢」、「君」を使用
・ 句点をピリオドではなく、「。」を使用
② 歌謡界への健全化の意向を反映して、「健全さ」を強調
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先日29日、京畿道加平郡南怡島にて開かれた「84MBC江辺歌謡祭」決戦大会は、3,000余名の傍聴客が集まった中、決戦進出の10チームが出場、熱烈な競り合いを広げた。MBCは、若い大学生たちの好評に支えられて、第5回を迎えたこのたびの江辺歌謡祭の決戦実況をTVおよびラジオで生中継、夏夜の舞台をなお一層熱気でいっぱい満たした。
キャンパスのアマチュア歌手たちの登用門である「84MBC江辺歌謡祭」出品作は、大賞の栄誉を抱いた「Jへ」を始め、若者たちの切ない恋と友情を描いた曲が大部分で、エレキギターを動員した激しい曲よりは穏やかで情感ある曲が主流をなした。
文化放送がキャンパス内の隠れた人材を発掘のため設けたこのたびの行事は、参加曲がみな創作曲という点で、放送マン(家)には意味あることとして受け取っている。
一方、このたびの行事は進行を引き受けた、李文世・吉恩貞2人の軟な話術が舞台ならびに放送席の雰囲気を健全に誘導し一層引き立つ舞台だった。李君は夏キャンプで広がりやすい低俗な夜遊びと毀損(きそん)を笑(え)みで誘導する老練味を見せたし、先の4月、歌謡界にデビュー、初めての舞台進行を引き受けた吉嬢は、経験がない学生たちがまごつかないように安定感ある態度で司会に臨んだ。
大賞の栄誉を抱いた混声デュエット「4幕5場」のメンバー、李仙姫嬢(18・仁川専門大環境管理科 1年)と林成均君(22・〃機械科 2年)は、思いがけない喜びに返って面食らった表情。
仁川専門大の音楽サークルである「4幕5場」メンバーの二人は、先春校内のギター発表会で息を合わせた後、ずっとデュエットで技量を磨いてきたと。「今、歌手としての基盤が固まったようです。趣味で十分だった音楽を、今は本格的に始める考えです」李嬢は、先輩の紹介で高校時代に歌手の張旭朝の作曲事務所(室)で、歌の練習をした隠れた経歴者。
「受賞曲もチャン・ウクチョ氏の事務所で会った先輩からもらいました」李嬢と林君は、参加曲を選定した後、約2ヶ月間、暇があるたびに息を合わせて来たと述べた。
「キャンパスソングは、大学のサークル活動の中でも人気がある課外活動ですよ」淡々とした表情の林君は、李嬢とは別に、将来の歌手活動は「考えて見るつもり」と、慎重な態度。
このたびの歌謡祭で、李嬢は高音処理に巧みで、飾り気のない唱法で人気を集め、林君は豊かな低音で和音を合わせ拍手を受けた。李嬢は仏教界に従事する李鐘圭氏(50)の長女。
林君は公務員である林炳業氏(52)の二男一女の末っ子である。
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2012年7月5日木曜日
(資料)ユン・ホジュン「世界を変えた歌36弾-イ・ソンヒ"Jへ"」
Daumミュージックに掲載のユン・ホジュン(윤호준)の「世界を変えた歌36弾 - イ・ソンヒ "Jへ"」(1/20)は、1984年の江辺歌謡祭に登場した後デビューを果たした、イ・ソンヒの姿を次(一部抜粋)のように記している。感謝。
・(「Jへ」受賞当時の)イ・ソンヒは小さな体躯で、大きな眼鏡をかけた平凡な容貌であったし、ズボン(スタイル)に固執した。(「Jへ」序奏部の)バース(verse、節(ふし))の低音域帯を歌う時、彼女は外見と一致した。もろくて細く震える声であり、純粋に見えた。しかしコーラス(chorus、リフレーン)が始まれば、立体的で圧倒的な声量で歌を強打した。どんなものも、彼女の前を遮れなかった。歌はあっという間に彼女に征服された。ズボンだけ着る少女の暴風のような内面、イ・ソンヒのキャラクターはそのように形成されたし、一瞬のうちに10代少女たちの心をとらえた。あえて荒い男性ロッカーを探す必要がなかった。妖艶な女性ソウル・ボーカルも必要なかった。彼女は、危険な男性と派手でけばけばしい女性という単純な設定を跳び越える領域を保有していた。少女たちは、平凡なイ・ソンヒの外見を自分たちといくらでも一致させることができた。そして、その次の過程は、イ・ソンヒに預けた。それにより、イ・ソンヒの途方もない声を祈るように、大胆になり熱くなることができた。彼女が「私は愛に落ちました」と、「燃えるような私の愛避けられなくて」と張り上げるたびに、ピリッとした戦慄が押し寄せてきた。
・イ・ソンヒは、「Jへ」から始まったイメージで、1980年代を生きたし、最高の人気を謳歌した。しおりにさしておいた色褪せたイチョウの葉を物語る「ヨン」が、少女たちだけの内密な世界を扱った歌が、人気歌謡の序列に上った時期はかつてなかった。レコードを発表するたびに、声がアップグレードされた彼女は、若い作曲家ソン・シヒョン(송시현)の歌を歌う時まで無敵だった。1990年代の入り口で「思い出のページをめくれば」を歌う時まで、イ・ソンヒは女子中高生たちのアバターであり、隠した欲望の代理人であった。
(Youtubeに登録の526apolloに感謝)
・(「Jへ」受賞当時の)イ・ソンヒは小さな体躯で、大きな眼鏡をかけた平凡な容貌であったし、ズボン(スタイル)に固執した。(「Jへ」序奏部の)バース(verse、節(ふし))の低音域帯を歌う時、彼女は外見と一致した。もろくて細く震える声であり、純粋に見えた。しかしコーラス(chorus、リフレーン)が始まれば、立体的で圧倒的な声量で歌を強打した。どんなものも、彼女の前を遮れなかった。歌はあっという間に彼女に征服された。ズボンだけ着る少女の暴風のような内面、イ・ソンヒのキャラクターはそのように形成されたし、一瞬のうちに10代少女たちの心をとらえた。あえて荒い男性ロッカーを探す必要がなかった。妖艶な女性ソウル・ボーカルも必要なかった。彼女は、危険な男性と派手でけばけばしい女性という単純な設定を跳び越える領域を保有していた。少女たちは、平凡なイ・ソンヒの外見を自分たちといくらでも一致させることができた。そして、その次の過程は、イ・ソンヒに預けた。それにより、イ・ソンヒの途方もない声を祈るように、大胆になり熱くなることができた。彼女が「私は愛に落ちました」と、「燃えるような私の愛避けられなくて」と張り上げるたびに、ピリッとした戦慄が押し寄せてきた。
・イ・ソンヒは、「Jへ」から始まったイメージで、1980年代を生きたし、最高の人気を謳歌した。しおりにさしておいた色褪せたイチョウの葉を物語る「ヨン」が、少女たちだけの内密な世界を扱った歌が、人気歌謡の序列に上った時期はかつてなかった。レコードを発表するたびに、声がアップグレードされた彼女は、若い作曲家ソン・シヒョン(송시현)の歌を歌う時まで無敵だった。1990年代の入り口で「思い出のページをめくれば」を歌う時まで、イ・ソンヒは女子中高生たちのアバターであり、隠した欲望の代理人であった。
(Youtubeに登録の526apolloに感謝)
2012年6月3日日曜日
音楽評論家カンホンの大衆音楽散歩 バラード
国際新聞の記事「音楽評論家カンホンの大衆音楽散歩"35" 冬の特別な音楽の贈り物バラード」(2011-12-06)に、韓国のバラードが歴史的にどのように展開したかを次のように語っている。感謝。
記事タイトルの冬とは違ってこれから夏であるが、「バラード」そのものに着目したいので。
・「バラード(ballad)。 踊るという意味を持つラテン語のballarからきた言葉。中世時代から欧州にかけて知られている、物語(narrative)と劇的台詞(せりふ)および叙情詩の要素の混合した民謡(folk song)の一種。元々はイタリアのバラータのように舞曲(dance-song)の意味だったが、14世紀から物語体の独唱(narative solo song)を一般的に称するようになる... 」
・グローブ音楽辞典のバラードの項はこのように始まって、延々十ページにかけて説明を繰り返す。バラードという言葉が、"踊る"という語源を持っていることが全く興味深い。世界大衆音楽の主流を形成しているバラードという言葉は、西洋の音楽史全体で生成され、発展して形を変えてきた音楽言語である。
・このような永遠の成功の根元を持っているバラードは、20世紀に入り、諸媒体の発展と一緒に、しっかりした影響力を構築した白人大衆音楽の本流となるのは恐らく当然のことだ。さらに、米国の(放送局)NBCとCBSが1926年とその翌年にそれぞれ開局と同時に、そしてそのほぼ同じ時期に無声映画に終止符を打ちつつ登場したミュージカル映画の中のロマンチックなメロディーが大衆の感情を引き付けながら、この、3和音を基本としたAABA形式の32小節の歌*は完璧な全盛時代を開いた。ビング・クロスビー、ペリー・コモ、フランク・シナトラに続くスターたちのパレードは、1950年代に過激な青年の音楽であるロックン・ロールが瞬く間に世界を征服した瞬間にも既成世代の支持に力づけられて没落しないねばっこさを発揮する。
(*補注) 映画「オズの魔法使」(1939年)の「虹の彼方に(Over The Rainbow)」のスロー・バラード
・そして6.25(朝鮮戦争)以降、この地(韓国)にも、米国の大衆音楽が洪水のようにあふれて入ってきたし、既存のトロット(演歌)音楽のバラードが中枢をなすスタンダード・ポップ系の曲が挑戦状を差し出したのは当然のことだ。しかし、初期には**「私一人だけの愛(나 하나의 사랑)」や「青い糸 赤い糸(청실 홍실)」の類の歌でわかるように、3拍子のワルツのリズムに基づいた歌が強勢を見せた。そうするうちに、ロックンロールが上陸する1960、70年代以降から、4拍子のスローテンポがこの場を置き換えた。1980年代に至っては、韓国で最も影響力のある主流の文法になった。1980年代の初頭に雌雄を競って全国を席巻したチョー·ヨンピルの「窓の外の女(창밖의 여자)」***とイ・ヨンの「忘れられた季節(잊혀진 계절)」の大成功が代表的な例になるだろう。
(**補注) ソン・ミンド(송민도)に代表される
(***補注) 本ブログ関連:"1980年代の韓国バラード"
・これらにより火引いたバラードの行進は、1980年代半ばから後半、イ・ムンセとピョン・ジンソプをはじめとする一群のバラード走者たちが、ビッグバン(宇宙の爆発的膨張)に近い爆発力を誇示しながら韓国大衆音楽界を完璧に掌握するが、チョ・ハムン、キム・ヒョンシク、イ・スンチョルなどのバンド出身のボーカリストたちがスポットライトを受けることになった原動力も、まさにこの音楽言語をベースに基づくことだ。 このジャンルの文法が大衆的に定着したことは、同時に、伝統的なトロット様式が支配してきた韓国大衆音楽が西欧大衆音楽の様式に移行するために、最後の句読点を付ける歴史的転換点でもあった。
・よく冬をバラードの季節ともいい、それは不況時に更に強さを見せるともいう。しかし、不思議なことに、ユン・ジョンシン(윤종신)の新譜を除けば、今回の冬(2011年12月)は鮮やかなバラードの新作はあまり見当たらない。まだ本格的に寒くないからか? でなければ、歌で慰められるには昨今の現実が、あまりにもパサパサしているためであろうか? 小さくて素朴な愛の幻想が何も救えないと言っても冬の曲を私は待つ。
(本ブログ関連:"カンホン")
記事タイトルの冬とは違ってこれから夏であるが、「バラード」そのものに着目したいので。
・「バラード(ballad)。 踊るという意味を持つラテン語のballarからきた言葉。中世時代から欧州にかけて知られている、物語(narrative)と劇的台詞(せりふ)および叙情詩の要素の混合した民謡(folk song)の一種。元々はイタリアのバラータのように舞曲(dance-song)の意味だったが、14世紀から物語体の独唱(narative solo song)を一般的に称するようになる... 」
・グローブ音楽辞典のバラードの項はこのように始まって、延々十ページにかけて説明を繰り返す。バラードという言葉が、"踊る"という語源を持っていることが全く興味深い。世界大衆音楽の主流を形成しているバラードという言葉は、西洋の音楽史全体で生成され、発展して形を変えてきた音楽言語である。
・このような永遠の成功の根元を持っているバラードは、20世紀に入り、諸媒体の発展と一緒に、しっかりした影響力を構築した白人大衆音楽の本流となるのは恐らく当然のことだ。さらに、米国の(放送局)NBCとCBSが1926年とその翌年にそれぞれ開局と同時に、そしてそのほぼ同じ時期に無声映画に終止符を打ちつつ登場したミュージカル映画の中のロマンチックなメロディーが大衆の感情を引き付けながら、この、3和音を基本としたAABA形式の32小節の歌*は完璧な全盛時代を開いた。ビング・クロスビー、ペリー・コモ、フランク・シナトラに続くスターたちのパレードは、1950年代に過激な青年の音楽であるロックン・ロールが瞬く間に世界を征服した瞬間にも既成世代の支持に力づけられて没落しないねばっこさを発揮する。
(*補注) 映画「オズの魔法使」(1939年)の「虹の彼方に(Over The Rainbow)」のスロー・バラード
・そして6.25(朝鮮戦争)以降、この地(韓国)にも、米国の大衆音楽が洪水のようにあふれて入ってきたし、既存のトロット(演歌)音楽のバラードが中枢をなすスタンダード・ポップ系の曲が挑戦状を差し出したのは当然のことだ。しかし、初期には**「私一人だけの愛(나 하나의 사랑)」や「青い糸 赤い糸(청실 홍실)」の類の歌でわかるように、3拍子のワルツのリズムに基づいた歌が強勢を見せた。そうするうちに、ロックンロールが上陸する1960、70年代以降から、4拍子のスローテンポがこの場を置き換えた。1980年代に至っては、韓国で最も影響力のある主流の文法になった。1980年代の初頭に雌雄を競って全国を席巻したチョー·ヨンピルの「窓の外の女(창밖의 여자)」***とイ・ヨンの「忘れられた季節(잊혀진 계절)」の大成功が代表的な例になるだろう。
(**補注) ソン・ミンド(송민도)に代表される
(***補注) 本ブログ関連:"1980年代の韓国バラード"
・これらにより火引いたバラードの行進は、1980年代半ばから後半、イ・ムンセとピョン・ジンソプをはじめとする一群のバラード走者たちが、ビッグバン(宇宙の爆発的膨張)に近い爆発力を誇示しながら韓国大衆音楽界を完璧に掌握するが、チョ・ハムン、キム・ヒョンシク、イ・スンチョルなどのバンド出身のボーカリストたちがスポットライトを受けることになった原動力も、まさにこの音楽言語をベースに基づくことだ。 このジャンルの文法が大衆的に定着したことは、同時に、伝統的なトロット様式が支配してきた韓国大衆音楽が西欧大衆音楽の様式に移行するために、最後の句読点を付ける歴史的転換点でもあった。
・よく冬をバラードの季節ともいい、それは不況時に更に強さを見せるともいう。しかし、不思議なことに、ユン・ジョンシン(윤종신)の新譜を除けば、今回の冬(2011年12月)は鮮やかなバラードの新作はあまり見当たらない。まだ本格的に寒くないからか? でなければ、歌で慰められるには昨今の現実が、あまりにもパサパサしているためであろうか? 小さくて素朴な愛の幻想が何も救えないと言っても冬の曲を私は待つ。
(本ブログ関連:"カンホン")
2012年3月23日金曜日
音楽評論家カンホンの大衆音楽散歩
国際新聞の記事「音楽評論家カンホンの大衆音楽散歩<49>"メンター" イ・ソンヒ」(3/20)は、サブタイトルに「30年間ひたむきに座を守った彼女に敬意を」として、MBCのオーディション番組「偉大なる誕生2」に参加しているイ・ソンヒを、音楽評論家カンホン(강헌)が次のように評している。感謝。
・MBCのオーディション番組「偉大なる誕生2」がいよいよトップ3に絞られた。生存者はペ・スジョン(배수정、女性)、ク・チャミョン(구자명、男性)、そしてチョン・ウンジン(전은진、女性)で、女性が二人だ。
・今までのオーディション番組で、女性はただ一人も優勝できなかった。二人の女性候補中、ペ・スジョンが半歩ほど有力に見えるが、初めての女性優勝者を出すためには二人とも、ク・チャミョンという強力なパワーボーカルの壁を越えなければならない。
・三人とも個性的なボーカルの突出した美しさを持っている点が興味深い。今シーズンの「偉大なる誕生」は、ボーカルの真剣勝負のような感じを与える。考えてみれば、大衆音楽の核心こそボーカルではないだろうか。
・人間が作ったすべての楽器は、人間の声を指向する。舞台の中心に人間の声が位置しているのは決して偶然でない。自分の声を持つことができなければ、偉大な音楽家になることができてもスターにはならない。大衆音楽史は魅力的なボーカリストの歴史なのだ。
・もちろん、立派な声の資質だけでは、優れたボーカリストになれない。自身のボーカルを極大化できる曲を作ることができるとか、そんな作曲家をパートナーとすることができる幸運がなければならない。何よりも、骨を削る継続的な訓練が伴わなければならない。そして、素晴らしい資質を土台に多様な表現を駆使できる能力を揃えなければ生命力を保存しにくい。それにもかかわらず、私たちが最も普遍的に容易に魅了されるボーカルは、やはり「熱唱派」と称する激情的なボーカル(歌手)たちだ。
・この熱唱派の頂点には、1980年代韓国大衆音楽史を支配して、まだ相変らず堂々と王座の栄誉を守っているチョー・ヨンピルとイ・ソンヒが位置している。「国民歌手」あるいは「歌王」と遇されるチョー・ヨンピルだからこそとしても、相対的に生命が短い女性音楽家たちの限界を考えると、イ・ソンヒが30年近く自身の座を守っていることに対して、脱帽して敬意を表わしても決して過言ではないと考える。
・1980年代に、主にTVを中心に活躍したイ・ソンヒの場合、「ミス・ダイナマイト」(?)という愛称を持った米国の女性ロッカーのパット・ベネター(Pat Benatar、1953年~)に決して引けを取らないパワーを誇り、10代の少年だけでなく少女ファンたちの視線を集結させた。彼女は、「愛が散るこの場所(사랑이 지는 이 자리)」や「いつもあなたを(나 항상 그대를)」のようなヒットナンバーでも分かるように、パワーの裏に隠れた繊細な感受性を表現している途方もない威力を発揮した。それが、当時のハイ・ティーンには、これ以上望むことがない贈り物だったわけだ。不惑の峠を越えても、イ・ソンヒは2005年の意欲的なアルバム「因縁(인연)」(13集所収)が見せたように、昨日の力に人生の「五欲七情(오욕칠정:人間本来持つ情と欲)」を包摂する円熟味まで加え、第2の全盛期を開く万全の体制を整えた。
・まさにこのイ・ソンヒがメンター(指導者)制を採用している「偉大なる誕生2」で、トップ3中の二人、ペ・スジョンとク・チャミョンのメンターであるという事実は真に興味深い。もし、今週に広がるトップ3のバトルで、チョン・ウジンが脱落するならば(この間の点数を見るならばとても有力な状況だ)、メンターの二人の弟子が優勝を決める珍しい風景を私たちは視聴することになるだろう。
・偉大なボーカリストたちはいつも、既存の芸術史を形成してきた多くの境界のスケールを革新的に越えてきた。そして私たちは、その中で人生の驚異と癒しを与えられる。
・MBCのオーディション番組「偉大なる誕生2」がいよいよトップ3に絞られた。生存者はペ・スジョン(배수정、女性)、ク・チャミョン(구자명、男性)、そしてチョン・ウンジン(전은진、女性)で、女性が二人だ。
・今までのオーディション番組で、女性はただ一人も優勝できなかった。二人の女性候補中、ペ・スジョンが半歩ほど有力に見えるが、初めての女性優勝者を出すためには二人とも、ク・チャミョンという強力なパワーボーカルの壁を越えなければならない。
・三人とも個性的なボーカルの突出した美しさを持っている点が興味深い。今シーズンの「偉大なる誕生」は、ボーカルの真剣勝負のような感じを与える。考えてみれば、大衆音楽の核心こそボーカルではないだろうか。
・人間が作ったすべての楽器は、人間の声を指向する。舞台の中心に人間の声が位置しているのは決して偶然でない。自分の声を持つことができなければ、偉大な音楽家になることができてもスターにはならない。大衆音楽史は魅力的なボーカリストの歴史なのだ。
・もちろん、立派な声の資質だけでは、優れたボーカリストになれない。自身のボーカルを極大化できる曲を作ることができるとか、そんな作曲家をパートナーとすることができる幸運がなければならない。何よりも、骨を削る継続的な訓練が伴わなければならない。そして、素晴らしい資質を土台に多様な表現を駆使できる能力を揃えなければ生命力を保存しにくい。それにもかかわらず、私たちが最も普遍的に容易に魅了されるボーカルは、やはり「熱唱派」と称する激情的なボーカル(歌手)たちだ。
・この熱唱派の頂点には、1980年代韓国大衆音楽史を支配して、まだ相変らず堂々と王座の栄誉を守っているチョー・ヨンピルとイ・ソンヒが位置している。「国民歌手」あるいは「歌王」と遇されるチョー・ヨンピルだからこそとしても、相対的に生命が短い女性音楽家たちの限界を考えると、イ・ソンヒが30年近く自身の座を守っていることに対して、脱帽して敬意を表わしても決して過言ではないと考える。
・1980年代に、主にTVを中心に活躍したイ・ソンヒの場合、「ミス・ダイナマイト」(?)という愛称を持った米国の女性ロッカーのパット・ベネター(Pat Benatar、1953年~)に決して引けを取らないパワーを誇り、10代の少年だけでなく少女ファンたちの視線を集結させた。彼女は、「愛が散るこの場所(사랑이 지는 이 자리)」や「いつもあなたを(나 항상 그대를)」のようなヒットナンバーでも分かるように、パワーの裏に隠れた繊細な感受性を表現している途方もない威力を発揮した。それが、当時のハイ・ティーンには、これ以上望むことがない贈り物だったわけだ。不惑の峠を越えても、イ・ソンヒは2005年の意欲的なアルバム「因縁(인연)」(13集所収)が見せたように、昨日の力に人生の「五欲七情(오욕칠정:人間本来持つ情と欲)」を包摂する円熟味まで加え、第2の全盛期を開く万全の体制を整えた。
・まさにこのイ・ソンヒがメンター(指導者)制を採用している「偉大なる誕生2」で、トップ3中の二人、ペ・スジョンとク・チャミョンのメンターであるという事実は真に興味深い。もし、今週に広がるトップ3のバトルで、チョン・ウジンが脱落するならば(この間の点数を見るならばとても有力な状況だ)、メンターの二人の弟子が優勝を決める珍しい風景を私たちは視聴することになるだろう。
・偉大なボーカリストたちはいつも、既存の芸術史を形成してきた多くの境界のスケールを革新的に越えてきた。そして私たちは、その中で人生の驚異と癒しを与えられる。
2011年10月10日月曜日
「カンホンの歌手列伝」 イ・ソンヒ
東亜日報(donga.com)の記事「[カンホンの歌手列伝] <14>イ・ソンヒ」(10/10)には、大衆音楽評論家のカンホンが言葉をたくみに駆使して、イ・ソンヒの全貌を次のようにまとめている。
・(発声が)爆発的であると同時に魅力あふれる叙情性を兼ね備えた、当代のボーカリスト、イ・ソンヒは、1984年の江辺歌謡祭に「Jへ」でシンデレラの夢をかなえた後、2005年に13番目の正規アルバム「四春期」(現在14集「愛よ...(사랑아)」:2009年)に至るまで、チョー・ヨンピルの対称点に立って、韓国の主流大衆音楽の栄光を謳歌してきた。「思い出のページをめくれば」が収録された6集(1990年)を境に絶頂期を過ぎたというが、彼女が1990年代と2000年代に発表した7枚のアルバムは、"スター"イ・ソンヒから"音楽家"イ・ソンヒに成熟して行く意味深い足取りの片鱗を惜しみなく見せる。
・チョー・ヨンピルとキム・ヒョンシク、そしてイ・ムンセがそうであったように、イ・ソンヒに1980年代は絶頂の時代であった。・・・若い女性ミュージシャンを輩出した音楽の登竜門だった江辺歌謡祭が、やぼったいパーマ頭で背の低い(しかし大賞を受賞した)ボーカリストに驚きを禁じえない視線を送った1984年のその年に、イ・ソンヒは、すぐに頂上圏のスーパースターへと急上昇する。
・作曲家ソン・ジュホが全曲を担当し、「ああ!昔よ」と「葛藤」のようなヒット曲を放った彼女のソロ・デビューアルバムは、・・・若さの躍動とさっぱりしたテンポがいきいきする、当時の10代の感情を端的に代弁するアルバムに浮上した。
・「お姉さん部隊」と呼ばれた10代の受容層が、韓国の大衆音楽市場のヘゲモニーを掌握していった1980年代半ばに、少女ファンたちからの持続的な熱狂を受けることができたほぼ唯一無二の存在だったイ・ソンヒの武器は、平凡で身近な隣のお姉さんのようなボーイッシュなイメージの中に潜んでいるカリスマ濃厚なボーカルだった。1986年が暮れていった冬に発表した3集と、2年後の四番目のアルバムは、解放感とほのかな懐かしさを同時に描写することができるイ・ソンヒのボーカルの圧倒的な余韻をそのまま見せてくれる、彼女の初期の決定版だ。彼女は伝統的に韓国の女性ヴォーカリストたちが駆使してきた豊かな感情移入の歌唱法をもとに、バラードへ躍動する新しい時代の息吹を吹き込んだし、「ヨン」と「美しい江山」のリメークで示したように、ビートのあるロックンロールのシャウティング唱法まで効果的に駆使する。
・作詞作曲の名コンビであるヤン・インジャ - キム・ヒガプによって誕生した、「分かりたいです」という無駄のない簡潔な楽譜の行間で、幼い淑女が少女漫画のように抱いていた切ない感情をこのように切実に訴えるボーカルは、その前後(の時代)に見つけるのは難しいだろう。このパターンは、洗練された音楽のドラマツルギー(Dramaturgie、劇的構成法)を持つ「愛が散るこの場所」と「私はいつもあなたを」などの名曲を作曲したソン・シヒョンをともなって、絶頂の花を咲かせる。
・イ・ソンヒのボーカルは、暖かいながらも、強靭な女性のエネルギーを抱いており、西欧的な発声の中でも、東洋的な静寂美が流れる。彼女のディスコグラフィーで最も挑戦的だった8集でキム・ヨンドンの「小船」や「ハンネの別れ」をリメイクしたファン・チョンウォンの詩にキム・ヨンドンが曲を付けた「あなたに会いたい時は」や、キム・ジハの詩の「あるおばあちゃんの極楽」、そしてどのような愛の歌よりも美しく、親しみやすい「いつも愛してる」を歌った時のイ・ソンヒは、ブラウン管とコンサートのスーパースターの枠組みから抜け出して、より深く広い音楽の世界に飛翔する。
・イ・ソンヒという名前は、栄光と絶望が交差する韓国女性ミュージシャンの歴史の巨大な注釈点のようだ。1994年9集の興行惨敗は、彼女の音楽履歴で最も危機だったにもかかわらず、彼女は決して挫折しないで、「因縁」と「バラ」という傑作を作ったシンガーソングライターとして、そして、成熟した女性に衣替えした2005年の傑作「四春期」(13集)のアルバムを、私たちの手に抱かせてくれた。
・イソンヒ、彼女は歌手だ。いつかインタビューで言ったように、彼女は専門的な音楽人になる遥か前から、話よりも歌を通じて歌を歌って自分を表現し伝達することがより楽だと思っていたような人だ。彼女は言った。「同じ歌を歌っても、私には何か悲しい力のようなものがあった。」 かすかだが強力な悲しみの力。それがイ・ソンヒ音楽の要約だ。
イ・ソンヒの写真解説:
デビュー時からカリスマと柔らかさを同時に抱えたイ・ソンヒは、1980年代の"お姉さん部隊'を導いた、ほぼ唯一の歌手であった。彼女の声は、暖かいながらも、強靭なエネルギーが感じられるという評価を聞く。 東亜日報DB
・(発声が)爆発的であると同時に魅力あふれる叙情性を兼ね備えた、当代のボーカリスト、イ・ソンヒは、1984年の江辺歌謡祭に「Jへ」でシンデレラの夢をかなえた後、2005年に13番目の正規アルバム「四春期」(現在14集「愛よ...(사랑아)」:2009年)に至るまで、チョー・ヨンピルの対称点に立って、韓国の主流大衆音楽の栄光を謳歌してきた。「思い出のページをめくれば」が収録された6集(1990年)を境に絶頂期を過ぎたというが、彼女が1990年代と2000年代に発表した7枚のアルバムは、"スター"イ・ソンヒから"音楽家"イ・ソンヒに成熟して行く意味深い足取りの片鱗を惜しみなく見せる。
・チョー・ヨンピルとキム・ヒョンシク、そしてイ・ムンセがそうであったように、イ・ソンヒに1980年代は絶頂の時代であった。・・・若い女性ミュージシャンを輩出した音楽の登竜門だった江辺歌謡祭が、やぼったいパーマ頭で背の低い(しかし大賞を受賞した)ボーカリストに驚きを禁じえない視線を送った1984年のその年に、イ・ソンヒは、すぐに頂上圏のスーパースターへと急上昇する。
・作曲家ソン・ジュホが全曲を担当し、「ああ!昔よ」と「葛藤」のようなヒット曲を放った彼女のソロ・デビューアルバムは、・・・若さの躍動とさっぱりしたテンポがいきいきする、当時の10代の感情を端的に代弁するアルバムに浮上した。
・「お姉さん部隊」と呼ばれた10代の受容層が、韓国の大衆音楽市場のヘゲモニーを掌握していった1980年代半ばに、少女ファンたちからの持続的な熱狂を受けることができたほぼ唯一無二の存在だったイ・ソンヒの武器は、平凡で身近な隣のお姉さんのようなボーイッシュなイメージの中に潜んでいるカリスマ濃厚なボーカルだった。1986年が暮れていった冬に発表した3集と、2年後の四番目のアルバムは、解放感とほのかな懐かしさを同時に描写することができるイ・ソンヒのボーカルの圧倒的な余韻をそのまま見せてくれる、彼女の初期の決定版だ。彼女は伝統的に韓国の女性ヴォーカリストたちが駆使してきた豊かな感情移入の歌唱法をもとに、バラードへ躍動する新しい時代の息吹を吹き込んだし、「ヨン」と「美しい江山」のリメークで示したように、ビートのあるロックンロールのシャウティング唱法まで効果的に駆使する。
・作詞作曲の名コンビであるヤン・インジャ - キム・ヒガプによって誕生した、「分かりたいです」という無駄のない簡潔な楽譜の行間で、幼い淑女が少女漫画のように抱いていた切ない感情をこのように切実に訴えるボーカルは、その前後(の時代)に見つけるのは難しいだろう。このパターンは、洗練された音楽のドラマツルギー(Dramaturgie、劇的構成法)を持つ「愛が散るこの場所」と「私はいつもあなたを」などの名曲を作曲したソン・シヒョンをともなって、絶頂の花を咲かせる。
・イ・ソンヒのボーカルは、暖かいながらも、強靭な女性のエネルギーを抱いており、西欧的な発声の中でも、東洋的な静寂美が流れる。彼女のディスコグラフィーで最も挑戦的だった8集でキム・ヨンドンの「小船」や「ハンネの別れ」をリメイクしたファン・チョンウォンの詩にキム・ヨンドンが曲を付けた「あなたに会いたい時は」や、キム・ジハの詩の「あるおばあちゃんの極楽」、そしてどのような愛の歌よりも美しく、親しみやすい「いつも愛してる」を歌った時のイ・ソンヒは、ブラウン管とコンサートのスーパースターの枠組みから抜け出して、より深く広い音楽の世界に飛翔する。
・イ・ソンヒという名前は、栄光と絶望が交差する韓国女性ミュージシャンの歴史の巨大な注釈点のようだ。1994年9集の興行惨敗は、彼女の音楽履歴で最も危機だったにもかかわらず、彼女は決して挫折しないで、「因縁」と「バラ」という傑作を作ったシンガーソングライターとして、そして、成熟した女性に衣替えした2005年の傑作「四春期」(13集)のアルバムを、私たちの手に抱かせてくれた。
・イソンヒ、彼女は歌手だ。いつかインタビューで言ったように、彼女は専門的な音楽人になる遥か前から、話よりも歌を通じて歌を歌って自分を表現し伝達することがより楽だと思っていたような人だ。彼女は言った。「同じ歌を歌っても、私には何か悲しい力のようなものがあった。」 かすかだが強力な悲しみの力。それがイ・ソンヒ音楽の要約だ。
イ・ソンヒの写真解説:
デビュー時からカリスマと柔らかさを同時に抱えたイ・ソンヒは、1980年代の"お姉さん部隊'を導いた、ほぼ唯一の歌手であった。彼女の声は、暖かいながらも、強靭なエネルギーが感じられるという評価を聞く。 東亜日報DB
2012年10月24日水曜日
(資料)レジェンド・プロファイル16弾-イ・ソンヒ
Daumミュージックに掲載のスペシャル企画連載「レジェンド・プロファイル16弾-イ・ソンヒ」(ムン・ジョンホ、2011年12月8日)に、イ・ソンヒのデビュー(1984年)から2000年に至るアーティスト(音楽家)としての変遷を、1990年代の変換に焦点をあて相当辛口ながら次のように記している。感謝。
(1980年代)
・イ・ソンヒといえば、常に少年のような顔とズボンだけに固執する特有の衣装スタイル、小さな体躯にもかかわらず客席の規模を問わず聴衆を圧倒させるすっきりした歌唱力などが思い浮かぶ。これは、ほとんど1980年代に確立され、今日まで続いているものである。俗に言うイ・ソンヒの黄金時代も1980年代に集中している。
1984年、第5回MBC「江辺歌謡祭」で大賞を受賞し、彗星のように登場したイ・ソンヒは、文字通り時代を代表するに不足ない活動を示した。特にヒット・ソングを量産して送り出す能力だけ見れば、同時代にイ・ソンヒより優位を占めることができる名前はほとんどない。いちいち羅列するのが難しい(音楽)チャートの成績や受賞歴がこれを代弁する。その中のいくつかは単発のヒットにとどまらず、時間と世代を超えた国民歌謡の位相さえ獲得した。
大衆にはじめてイ・ソンヒを刻印させた「Jへ」が代表的だ。「あ! 昔よ」と「ヨン」、「私はいつもあなたを」なども美しい曲だ。TVアニメ「走れハニー」の主題歌も欠かすことができない。真にすべて、時代が要求する健全さの標本であったし、イ・ソンヒもまたそのような役割を厭わず、国民の自負心を鼓吹させる歌もよく歌った。
今でこそ「美しい江山」を聞いて、果たしてこれが原作者の意図を十分に反映した再解釈か疑問を持つが、当時国民学校低学年子供の胸まで食い込んだ痛快さを、熱心でなかった感情で片付けたくない。思い出をちょっと美化したいのに、窮屈にしてるんじゃないではないかと?
(1990年代)
・2000年代を生きていくということがちょっとうんざりされる頃、1990年代の音楽は豊かさに満ちていた時代の産物と格上げされた。しかし、1990年代に全盛期を享受した音楽家たちの大部分は、2000年代に入ってネームバリューのみ残しただけで、実質的に影響力を行使できなかった。
イ・ソンヒには1990年代がそれにあたる。1990年代がとうてい理解できないラップとダンス音楽であふれるロマンも何もない時代と呼ばれた時、イ・ソンヒは1980年代に全盛期を送った昔の人というだけだった。発表するに従い、誰でも歌える流行歌で作った1980年代のイ・ソンヒは最早存在していなかった。
しかし1990年代は、イ・ソンヒが最も意欲的に正規アルバムを作業していた時期でもある。当時、発表された結果を見れば、いかなる意味では1980年代よりさらに興味深い内奥がある。事実イ・ソンヒが1980年代に発表したアルバムは、流行歌の歌集としては優秀かも知れないが作品としての満足感はとても低い方だ。しかし1990年代のアルバムは、作品単位で何か残そうとする意志が強くうかがえる。例えば、本格的に国楽を試みた「小船(조각배)」(1992年、8集)と、はじめて自作曲で満たした「First Love」(1996年、10集)、はじめて1990年代(音楽)語法を受け入れ始めた「Dream of Ruby」(1998年、11集)などは、以前と差別される内容で面白味を与えた。微弱なチャート成績により大きく注目をあびられなかったが、イ・ソンヒそれなりに、絶えず新しさを追求して変化を模索したのだ。 これはボーカリストを越えた音楽家としての可能性である。
(1990年代から2000年代へ)
・もちろん、そのような試みが完全に優れた結果を残したわけではない。「小船」での国楽の導入はボーカリストとしての地位が再確認させてくれただけで継続的な成果につながれなかったし、「First Love」は、唱法の変化と多様なジャンルの選択(権)を提示したが、開始段階以上ではなかった。メガネをはずし撮ったジャケット写真が印象的な「Dream of Ruby」は、1990年代に流行した作法とラップを導入するなど、視覚的な部分で予告されたように、非常に破格的な変身を込めたがあまり似合わなかった。
1990年代にイ・ソンヒが残した成果の中で最も素晴らしいアルバムは1980年代の方法論をより一層完成度あるように実現した「思い出のページをめくれば(추억의 책장을 넘기면)」(1990年、6集)である。クラシックの旋律を加味して気品を高めることに肯定的な影響を及ぼした 「思い出のページをめくれば」とブルースを試みた「懐かしさは去って」、イ・ソンヒ特有の迫力を感じることができる「懐かしい国」などが入れられた「思い出のページをめくれば」は1990年代だけでなく、全体の結果を見てみても断然引き立って見える。
しかし、イ・ソンヒが1990年代に果敢に試みていた、残りの方法論が無意味に終わったわけではない。 これは、イ・ソンヒが再び成長する過程であった2000年代を準備する心強い足場となった。出発はやや揺れた。2000年代に入ってはじめて発表した「My Life + Best」(2001年、12集)は、「Dream of Ruby」の延長でユ・ヨンソクとパク・チニョンなどの曲を受けゴスペル的な要素とアフリカのリズムを取り入れたいくつかの試みはユニークたが、アルバムを主導した催涙性(感傷的な)バラードとの出会いは確かにぎこちなかった。
(2000年代)
結実が現れたのは「四春期(사춘기)」(2005年、13集)だ。 「First Love」から久し振りに自作曲で満たした「四春期」は、1990年代に試みとしてとどまっていた部分が最終的に自分の枠組みの中で成果を収めたことを証明する結果である。結局、整理と補完だ。
「縁」から漂う東洋的な色彩は、国楽に没頭した「小船」時期を連想させるアプローチの違いを見せ、(さらに)「なぜ?」という初期から試みたロック的な要素をもっとモダンに整えた曲だ。「First Love」が、他人の曲を受けたときよりも、直接曲を書いたときに魅力的にアピールすることができるかも知れないという余地を残したアルバムだったとしたら、「四春期」は、これを実現させたという点で意味を付与することができる。「ひまわり」と 「あなたの街」が収録された(現在の最新アルバムである)「愛よ...(사랑아...)」(2009年、14集)では、安定圏に入った作法とは別に依然として新しいスタイルに対する好奇心が感じられる。歌の感情線もさらに深まった。
(これから)
・イ・ソンヒを言うとき、高音と声量を根拠に、1980年代から今日まで何の変化なしに一貫した歩みを繰り返した歌手と規定することは適切ではない。特定の結果の達成に代弁されていないため、アルバム単位のアクセスを基本とする評価対象には退屈だが、流行歌をはき出した1980年代はもちろん、様々な変化を模索していた1990年代、試行に伴う結実を収めた2000年代、どの時代を振り返ってみても歌手らしい歌手として残るための努力を怠らなかった時がない。他人の歌で歌手としての能力の検証を受けることも重要だが、私にはイ・ソンヒの道がより貴重にせまる。
(本ブログ関連:"思い出のページをめくれば")
(1980年代)
・イ・ソンヒといえば、常に少年のような顔とズボンだけに固執する特有の衣装スタイル、小さな体躯にもかかわらず客席の規模を問わず聴衆を圧倒させるすっきりした歌唱力などが思い浮かぶ。これは、ほとんど1980年代に確立され、今日まで続いているものである。俗に言うイ・ソンヒの黄金時代も1980年代に集中している。
1984年、第5回MBC「江辺歌謡祭」で大賞を受賞し、彗星のように登場したイ・ソンヒは、文字通り時代を代表するに不足ない活動を示した。特にヒット・ソングを量産して送り出す能力だけ見れば、同時代にイ・ソンヒより優位を占めることができる名前はほとんどない。いちいち羅列するのが難しい(音楽)チャートの成績や受賞歴がこれを代弁する。その中のいくつかは単発のヒットにとどまらず、時間と世代を超えた国民歌謡の位相さえ獲得した。
大衆にはじめてイ・ソンヒを刻印させた「Jへ」が代表的だ。「あ! 昔よ」と「ヨン」、「私はいつもあなたを」なども美しい曲だ。TVアニメ「走れハニー」の主題歌も欠かすことができない。真にすべて、時代が要求する健全さの標本であったし、イ・ソンヒもまたそのような役割を厭わず、国民の自負心を鼓吹させる歌もよく歌った。
今でこそ「美しい江山」を聞いて、果たしてこれが原作者の意図を十分に反映した再解釈か疑問を持つが、当時国民学校低学年子供の胸まで食い込んだ痛快さを、熱心でなかった感情で片付けたくない。思い出をちょっと美化したいのに、窮屈にしてるんじゃないではないかと?
(1990年代)
・2000年代を生きていくということがちょっとうんざりされる頃、1990年代の音楽は豊かさに満ちていた時代の産物と格上げされた。しかし、1990年代に全盛期を享受した音楽家たちの大部分は、2000年代に入ってネームバリューのみ残しただけで、実質的に影響力を行使できなかった。
イ・ソンヒには1990年代がそれにあたる。1990年代がとうてい理解できないラップとダンス音楽であふれるロマンも何もない時代と呼ばれた時、イ・ソンヒは1980年代に全盛期を送った昔の人というだけだった。発表するに従い、誰でも歌える流行歌で作った1980年代のイ・ソンヒは最早存在していなかった。
しかし1990年代は、イ・ソンヒが最も意欲的に正規アルバムを作業していた時期でもある。当時、発表された結果を見れば、いかなる意味では1980年代よりさらに興味深い内奥がある。事実イ・ソンヒが1980年代に発表したアルバムは、流行歌の歌集としては優秀かも知れないが作品としての満足感はとても低い方だ。しかし1990年代のアルバムは、作品単位で何か残そうとする意志が強くうかがえる。例えば、本格的に国楽を試みた「小船(조각배)」(1992年、8集)と、はじめて自作曲で満たした「First Love」(1996年、10集)、はじめて1990年代(音楽)語法を受け入れ始めた「Dream of Ruby」(1998年、11集)などは、以前と差別される内容で面白味を与えた。微弱なチャート成績により大きく注目をあびられなかったが、イ・ソンヒそれなりに、絶えず新しさを追求して変化を模索したのだ。 これはボーカリストを越えた音楽家としての可能性である。
(1990年代から2000年代へ)
・もちろん、そのような試みが完全に優れた結果を残したわけではない。「小船」での国楽の導入はボーカリストとしての地位が再確認させてくれただけで継続的な成果につながれなかったし、「First Love」は、唱法の変化と多様なジャンルの選択(権)を提示したが、開始段階以上ではなかった。メガネをはずし撮ったジャケット写真が印象的な「Dream of Ruby」は、1990年代に流行した作法とラップを導入するなど、視覚的な部分で予告されたように、非常に破格的な変身を込めたがあまり似合わなかった。
1990年代にイ・ソンヒが残した成果の中で最も素晴らしいアルバムは1980年代の方法論をより一層完成度あるように実現した「思い出のページをめくれば(추억의 책장을 넘기면)」(1990年、6集)である。クラシックの旋律を加味して気品を高めることに肯定的な影響を及ぼした 「思い出のページをめくれば」とブルースを試みた「懐かしさは去って」、イ・ソンヒ特有の迫力を感じることができる「懐かしい国」などが入れられた「思い出のページをめくれば」は1990年代だけでなく、全体の結果を見てみても断然引き立って見える。
しかし、イ・ソンヒが1990年代に果敢に試みていた、残りの方法論が無意味に終わったわけではない。 これは、イ・ソンヒが再び成長する過程であった2000年代を準備する心強い足場となった。出発はやや揺れた。2000年代に入ってはじめて発表した「My Life + Best」(2001年、12集)は、「Dream of Ruby」の延長でユ・ヨンソクとパク・チニョンなどの曲を受けゴスペル的な要素とアフリカのリズムを取り入れたいくつかの試みはユニークたが、アルバムを主導した催涙性(感傷的な)バラードとの出会いは確かにぎこちなかった。
(2000年代)
結実が現れたのは「四春期(사춘기)」(2005年、13集)だ。 「First Love」から久し振りに自作曲で満たした「四春期」は、1990年代に試みとしてとどまっていた部分が最終的に自分の枠組みの中で成果を収めたことを証明する結果である。結局、整理と補完だ。
「縁」から漂う東洋的な色彩は、国楽に没頭した「小船」時期を連想させるアプローチの違いを見せ、(さらに)「なぜ?」という初期から試みたロック的な要素をもっとモダンに整えた曲だ。「First Love」が、他人の曲を受けたときよりも、直接曲を書いたときに魅力的にアピールすることができるかも知れないという余地を残したアルバムだったとしたら、「四春期」は、これを実現させたという点で意味を付与することができる。「ひまわり」と 「あなたの街」が収録された(現在の最新アルバムである)「愛よ...(사랑아...)」(2009年、14集)では、安定圏に入った作法とは別に依然として新しいスタイルに対する好奇心が感じられる。歌の感情線もさらに深まった。
(これから)
・イ・ソンヒを言うとき、高音と声量を根拠に、1980年代から今日まで何の変化なしに一貫した歩みを繰り返した歌手と規定することは適切ではない。特定の結果の達成に代弁されていないため、アルバム単位のアクセスを基本とする評価対象には退屈だが、流行歌をはき出した1980年代はもちろん、様々な変化を模索していた1990年代、試行に伴う結実を収めた2000年代、どの時代を振り返ってみても歌手らしい歌手として残るための努力を怠らなかった時がない。他人の歌で歌手としての能力の検証を受けることも重要だが、私にはイ・ソンヒの道がより貴重にせまる。
(本ブログ関連:"思い出のページをめくれば")
2012年7月14日土曜日
(資料)チョ・ソンジンの「イ・ソンヒの声量」
中央日報の(以前の)記事「[チョ・ソンジンの音痴不可] イ・ソンヒ…声楽家にも押されない声量 - 発音・音程 定規で測ったように正確 パワーと女性的華奢さを兼備え」(2006年5月24日、修正採集版:2006年7月10日)に、イ・ソンヒの強力な発声・声量について、月刊「ホットミュージック」の(第2代)編集長のチョ・ソンジン音楽評論家が次のように述べている。感謝。
・歌うときは色々な筋肉が使われる。腹筋、腰筋、声帯筋、胸筋などほとんど使わない部位がないので、歌自体も大きい運動であるわけだ。からだはそれ自体が一つの響筒である。歌が上手な人たちは響かせ、からだをより一層性能良くするために刻苦の努力をしたと見ることができる。
・最近、300年ほど古い名品のヴァイオリンのストラディバリウスが米楽器競売史上最高額の354万ドル(約33億ウォン)で売れたという。1984年「Jへ」で彗星のように登場したイ・ソンヒは、鋭い刃の繊細な美しさが連想される、ストラディバリウスのような名品の響筒の典型である。
・彼女は、(裏声に対置する)真声を主に使うが、状況によって頭声(裏声)をはじめとする色々な唱法を応用している。快い音色に途てつもない声量は、彼女の強みの一つだ。女性ロック ボーカリストのパット・ベネット(Pat Benett)やグループ「フォノンブロンズ(4 Non Blondes)」のボーカルで有名なリンダ・ペリー(Linda Perry)*の強力さに女性的な面が混在されている。それで、イ・ソンヒの歌では、眩しく強いながらも女性的な華奢さがにじみ出る。
(*補注)リンダ・ペリーの4 Non Blondesの「What's up」を、イ・ソンヒも歌っている。 (Youtube登録の4NonBlondesVEVO、526apolloに感謝)
・音楽界に初めて登場する当時、イ・ソンヒは強力で熱情的な唱法を駆使した。舌が比較的厚い方だとそれだけ声にパワーをよくのせて高音でも力があってさっぱりと伸びていく。完璧なほどすっきりしている高音処理以外に声帯と顎、胸式バイブレーションなどを等しく駆使する能力も優れる。
・それのみか. 合唱団や声楽家らと「マッチャン(1対1対面)」しても声量で少しも押されることがない。声量が大きいので声の共鳴もまた大きい。難しい曲でも一音を長引く長い息遣い、澄んだ力強い音色を維持する姿は十分に天下のイ・ソンヒらしい。発音と音程、リズムもまた、全部定規で測ったように正確だ。まさにこういう正確性で鋭いボイスの熱唱が時には聞き苦るしくするほどだ。他の見方をすれば初期のイ・ソンヒは、驚くべき歌唱力の所有者であるのに音の余裕がないように見えた。
・一つ時間が過ぎながら、イ・ソンヒの歌では「味」が感じられ始めた。歌う時に力もたくさん落ちて楽になった。それでも強く鋭く振る部分では、相変らず色あせない高出力パワーが輝く。歌う時、色々な筋肉を組織的によく使うのも知ることができる。ロックからポップ、バラード、国楽まで消化できないことがないのだから。
・イ・ソンヒは40代に入ったのに首(>喉)の管理をうまくして相変らず良いコンディションを見せている。それ自体が名品の響筒になって、単に「声を吐きだす」のではなく、「声を食べる」超絶頂段階にまでなった。
・いつかイ・ソンヒは、「技巧よりは歌で真正性を吹き込む態度が重要だ」と話したことがある。来月(2006年6月)17,18日世宗文化会館で開くイ・ソンヒの「因縁」(22周年)コンサートは、30人編成の弦楽器を動員して国楽と洋楽を行き来する舞台で飾るのだ。イ・ソンヒが直接タンゴのダンスまでリリースする予定という。絶えず生まれ変わって内面的により一層深くなるばかりであるイ・ソンヒ、 彼女が話す「歌の真正性」を今回の舞台で見たい。
(本ブログ関連:"イ・ソンヒと高音"、"イ・ソンヒと高音 2nd")
・歌うときは色々な筋肉が使われる。腹筋、腰筋、声帯筋、胸筋などほとんど使わない部位がないので、歌自体も大きい運動であるわけだ。からだはそれ自体が一つの響筒である。歌が上手な人たちは響かせ、からだをより一層性能良くするために刻苦の努力をしたと見ることができる。
・最近、300年ほど古い名品のヴァイオリンのストラディバリウスが米楽器競売史上最高額の354万ドル(約33億ウォン)で売れたという。1984年「Jへ」で彗星のように登場したイ・ソンヒは、鋭い刃の繊細な美しさが連想される、ストラディバリウスのような名品の響筒の典型である。
・彼女は、(裏声に対置する)真声を主に使うが、状況によって頭声(裏声)をはじめとする色々な唱法を応用している。快い音色に途てつもない声量は、彼女の強みの一つだ。女性ロック ボーカリストのパット・ベネット(Pat Benett)やグループ「フォノンブロンズ(4 Non Blondes)」のボーカルで有名なリンダ・ペリー(Linda Perry)*の強力さに女性的な面が混在されている。それで、イ・ソンヒの歌では、眩しく強いながらも女性的な華奢さがにじみ出る。
(*補注)リンダ・ペリーの4 Non Blondesの「What's up」を、イ・ソンヒも歌っている。 (Youtube登録の4NonBlondesVEVO、526apolloに感謝)
・音楽界に初めて登場する当時、イ・ソンヒは強力で熱情的な唱法を駆使した。舌が比較的厚い方だとそれだけ声にパワーをよくのせて高音でも力があってさっぱりと伸びていく。完璧なほどすっきりしている高音処理以外に声帯と顎、胸式バイブレーションなどを等しく駆使する能力も優れる。
・それのみか. 合唱団や声楽家らと「マッチャン(1対1対面)」しても声量で少しも押されることがない。声量が大きいので声の共鳴もまた大きい。難しい曲でも一音を長引く長い息遣い、澄んだ力強い音色を維持する姿は十分に天下のイ・ソンヒらしい。発音と音程、リズムもまた、全部定規で測ったように正確だ。まさにこういう正確性で鋭いボイスの熱唱が時には聞き苦るしくするほどだ。他の見方をすれば初期のイ・ソンヒは、驚くべき歌唱力の所有者であるのに音の余裕がないように見えた。
・一つ時間が過ぎながら、イ・ソンヒの歌では「味」が感じられ始めた。歌う時に力もたくさん落ちて楽になった。それでも強く鋭く振る部分では、相変らず色あせない高出力パワーが輝く。歌う時、色々な筋肉を組織的によく使うのも知ることができる。ロックからポップ、バラード、国楽まで消化できないことがないのだから。
・イ・ソンヒは40代に入ったのに首(>喉)の管理をうまくして相変らず良いコンディションを見せている。それ自体が名品の響筒になって、単に「声を吐きだす」のではなく、「声を食べる」超絶頂段階にまでなった。
・いつかイ・ソンヒは、「技巧よりは歌で真正性を吹き込む態度が重要だ」と話したことがある。来月(2006年6月)17,18日世宗文化会館で開くイ・ソンヒの「因縁」(22周年)コンサートは、30人編成の弦楽器を動員して国楽と洋楽を行き来する舞台で飾るのだ。イ・ソンヒが直接タンゴのダンスまでリリースする予定という。絶えず生まれ変わって内面的により一層深くなるばかりであるイ・ソンヒ、 彼女が話す「歌の真正性」を今回の舞台で見たい。
(本ブログ関連:"イ・ソンヒと高音"、"イ・ソンヒと高音 2nd")
2012年6月20日水曜日
(資料)イ・ヨンウ大衆音楽評論家「江辺歌謡祭とイ・ソンヒ」
ブログ「タンサン(딴산)」に連載されている、イ・ヨンウ(이용우)大衆音楽評論家のシリーズにある「(77)爆発的歌唱力で姉さん部隊を号令したイ・ソンヒ - 5月の陽射し」(2006年12月4日)は、イ・ソンヒがトップ歌手として確立するまでを、アルバム6集までの経過と合わせて説明している。
イ・ソンヒの出発を知る貴重な資料として、次のように掲載させていただく。感謝
「爆発的歌唱力で80年代の"姉さん部隊"号令」
韓国ポップの事件・事故60年
(70)江辺歌謡祭とイ・ソンヒ
・ここらで1980年代半ばの大学生歌謡祭を見て回る必要があるようだ。MBC大学歌謡祭の話は何回も扱ったことがあるので、今度はMBC江辺歌謡祭*に集中してみよう。1979年江辺祭りという名前で始まった江辺歌謡祭は初年度ホンサムトリオの<祈り>(大賞受賞曲)をヒットさせたがしばらく大学歌謡祭の威勢に押されて相対的に水準が落ちる行事と見なされる傾向があった。こういう通念の底辺には江辺歌謡祭が出場資格で大学歌謡祭より柔軟なためという学閥主義的見解も厳存したが、これは「悲しいが真実」だった。
(*補注:"(資料)江辺歌謡祭の曲")
・だが、1980年代半ばに達して江辺歌謡祭は大学歌謡祭の牙城を威嚇するほどになった。その出発点は1983年ソン・ヒョンヒの<名前がない鳥>(大賞)を上げられるだろうが、真の大当たりは1984年5回大会の時に炸裂した。まさに混成デュエット4幕5場が歌った<Jへ>(大賞)だ。4幕5場の女性リード・ボーカルが1980年代中後半歌謡界を号令したイ・ソンヒという事実は当時に青年期を送った彼らには蛇足である。
(1集、2集)
・<Jへ>は、1984年下半期最大のヒット曲に浮び上がったし、勢いを駆ってイ・ソンヒは翌年初め地球レコードを通じてソロ・デビューした。イ・ソンヒの(1集)デビュー作はタイトル曲<ああ! 昔よ>が途方もないヒットを記録し、<葛藤>もやはり人気を得ながら歌謡界の新しいディーバ(歌姫)が誕生したことを知らせた。2集もやはりタイトル曲<秋の風>をチャート上位圏に上げて連続ヒットを打ったし、こういう勢いは1980年代が終るまで続いた。
(3集)
・1980年代下半期は、イ・ソンヒの全盛時代であった。1986年発売された3集から1990年6集まで4枚のアルバムは軽重を問い詰めにくい程ヒットした。3集ではヤン・インジャ(양인자)、キム・ヒガプ(김희갑)のコンビが作詞・作曲を引き受けたバラード<分かりたいです>が途方もないヒットを記録したし、軽快な雰囲気の<ヨン>もそれに劣らない人気を享受した。「当代のメジャー中のメジャー」であった地球レコードの時期、ベテランのソング・ライターと演奏者の後押しを受けたイ・ソンヒは、3集を最後に地球レコードと決別して以後、ヘグァン企画所属で、ソウルレコードでレコードを発売し始めた。
(4集から6集)
・4集からイ・ソンヒはもう少し若いソング・ライターと演奏者を招へいして音楽的にも自分色を洗練していった。4集は<私はいつもあなたを>、<愛が散るこの場所>をチャート頂上に上げただけでなく、新鋭作曲家ソン・シヒョン(송시현)を人気作曲家の位置に引き上げた。作曲家群にキム・ポムニョン(김범룡)、キム・チャンワン(김창완)、イ・チェソン(이재성)などを加えた5集は<私の町>、 <五月の陽射し>、<ひとしきり笑いで>の ヒットで結実を結んだし、6集は<なぜ私だけ>と<思い出のページをめくれば>でロングランを継続した。
・小さい体躯で信じ難いほど爆発的な歌唱力を誇るイ・ソンヒのボーカルは、一気にそして長らく大衆の感性を吸引した。清らかで純粋ながら、しっかりしているイメージまで兼ね備えたイ・ソンヒは数多くの男性、女性の追っかけ(部隊)をファン層で確保した。
・イ・ソンヒは、1980年代中後半少女ファンたちの独歩的な偶像だったが人気に安住しないで彼らと共に成長していった。
イ・ソンヒの出発を知る貴重な資料として、次のように掲載させていただく。感謝
「爆発的歌唱力で80年代の"姉さん部隊"号令」
韓国ポップの事件・事故60年
(70)江辺歌謡祭とイ・ソンヒ
・ここらで1980年代半ばの大学生歌謡祭を見て回る必要があるようだ。MBC大学歌謡祭の話は何回も扱ったことがあるので、今度はMBC江辺歌謡祭*に集中してみよう。1979年江辺祭りという名前で始まった江辺歌謡祭は初年度ホンサムトリオの<祈り>(大賞受賞曲)をヒットさせたがしばらく大学歌謡祭の威勢に押されて相対的に水準が落ちる行事と見なされる傾向があった。こういう通念の底辺には江辺歌謡祭が出場資格で大学歌謡祭より柔軟なためという学閥主義的見解も厳存したが、これは「悲しいが真実」だった。
(*補注:"(資料)江辺歌謡祭の曲")
・だが、1980年代半ばに達して江辺歌謡祭は大学歌謡祭の牙城を威嚇するほどになった。その出発点は1983年ソン・ヒョンヒの<名前がない鳥>(大賞)を上げられるだろうが、真の大当たりは1984年5回大会の時に炸裂した。まさに混成デュエット4幕5場が歌った<Jへ>(大賞)だ。4幕5場の女性リード・ボーカルが1980年代中後半歌謡界を号令したイ・ソンヒという事実は当時に青年期を送った彼らには蛇足である。
(1集、2集)
・<Jへ>は、1984年下半期最大のヒット曲に浮び上がったし、勢いを駆ってイ・ソンヒは翌年初め地球レコードを通じてソロ・デビューした。イ・ソンヒの(1集)デビュー作はタイトル曲<ああ! 昔よ>が途方もないヒットを記録し、<葛藤>もやはり人気を得ながら歌謡界の新しいディーバ(歌姫)が誕生したことを知らせた。2集もやはりタイトル曲<秋の風>をチャート上位圏に上げて連続ヒットを打ったし、こういう勢いは1980年代が終るまで続いた。
(3集)
・1980年代下半期は、イ・ソンヒの全盛時代であった。1986年発売された3集から1990年6集まで4枚のアルバムは軽重を問い詰めにくい程ヒットした。3集ではヤン・インジャ(양인자)、キム・ヒガプ(김희갑)のコンビが作詞・作曲を引き受けたバラード<分かりたいです>が途方もないヒットを記録したし、軽快な雰囲気の<ヨン>もそれに劣らない人気を享受した。「当代のメジャー中のメジャー」であった地球レコードの時期、ベテランのソング・ライターと演奏者の後押しを受けたイ・ソンヒは、3集を最後に地球レコードと決別して以後、ヘグァン企画所属で、ソウルレコードでレコードを発売し始めた。
(4集から6集)
・4集からイ・ソンヒはもう少し若いソング・ライターと演奏者を招へいして音楽的にも自分色を洗練していった。4集は<私はいつもあなたを>、<愛が散るこの場所>をチャート頂上に上げただけでなく、新鋭作曲家ソン・シヒョン(송시현)を人気作曲家の位置に引き上げた。作曲家群にキム・ポムニョン(김범룡)、キム・チャンワン(김창완)、イ・チェソン(이재성)などを加えた5集は<私の町>、 <五月の陽射し>、<ひとしきり笑いで>の ヒットで結実を結んだし、6集は<なぜ私だけ>と<思い出のページをめくれば>でロングランを継続した。
・小さい体躯で信じ難いほど爆発的な歌唱力を誇るイ・ソンヒのボーカルは、一気にそして長らく大衆の感性を吸引した。清らかで純粋ながら、しっかりしているイメージまで兼ね備えたイ・ソンヒは数多くの男性、女性の追っかけ(部隊)をファン層で確保した。
・イ・ソンヒは、1980年代中後半少女ファンたちの独歩的な偶像だったが人気に安住しないで彼らと共に成長していった。
2013年8月8日木曜日
(資料)Mnet アーティスト・レビュー「イ・ソンヒ」
Mnetのアーティスト・レビューは、イ・ソンヒについて次のような紹介をしている。内容からこの記事の作成時期は、2011年に彼女のニューヨークのカーネギーホール公演(2月3日)直前のようだ。
(来年2014年は、イ・ソンヒのデビュー30周年にあたるのでいろいろと追記されるだろう)
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イ・ソンヒは、1984年歌謡界にデビュー、以後立て続けに急成長して人気を享受し、90年代初めまで最も人気ある女性歌手であった。
80年代後半まで、彼女は全盛期には、どんな男性歌手よりも女学生ファンを多く引き連れたし、特に可愛いらしいイメージとボーイッシュなイメージを同時に持つ、彼女の容貌と服装は女性たちの熱狂的な支持を勝ち取った。彼女はまた、小柄に似合わない最高の歌唱力を持つという評価を得る。
1984年
イ・ソンヒは1984年の「河辺歌謡祭」で、イム・ソンギュンと共に「4幕5場」チームで出場、「Jへ」で大賞を受ける。この歌は、歌謡祭以後にも全国的なヒットを記録、イ・ソンヒというスターを誕生させる。男性歌手の人気が事実上歌謡界を牛耳っている頃に、ズボン姿でショートカットのイ・ソンヒは新鮮な風を巻き起こした。
1985年-1986年
彼女は、1985年「4幕5場」チームが事実上瓦解して単独でデビューする。デビューアルバムは、「Jへ」、「ああ!昔よ」、「葛藤」が収録、大成功を記録する。イ・ソンヒの人気はまさに爆発的だった。 各種歌謡祭とランキング歌番組をさらったし、その人気は2集につながった。
1985年2集には、「秋の風」、「ケンチャナ」などが収録、ヒットし彼女は最高の女歌手の地位を占める。
1986年には、3集が持続的な愛(支持)を受けた。「ヨン」、「分かりたいです」が引き続きヒットし、再び主な賞と順位を占めた。
1988年、1989年、1990年
イ・ソンヒの音楽に変化が起き始めたのは4集アルバムからだった。「愛が散るこの場所」・「私はいつもあなたを」(1988)、「私の街」・「5月の陽射し」(1989)、「なぜ私だけ」・「思い出のページをめくれば」(1990)に続く4、5、6集は、全て大衆的に良い反応を得たが、以前と同じ程ではなかった。
だが、作曲家ソン・シヒョンに出会い、歌詞とメロディでずっと叙情性を追求し、一層成熟した音楽への意欲を見せる。当時のヒット曲である「愛が散るこの場所」、「ひとしきり笑いで」、「私の街」、「思い出のページをめくれば」などは、そういったスタイルを反映する。
その上、シン・ジュンヒョンの原曲である「美しい山河」は、原曲とはまた違ったすがすがしく軽快な味をプレゼント、国民歌謡と認められていまだに彼女の各種行事でこの曲を熱唱するのを見ることができる。
1990年代-2001年
イ・ソンヒの人気は、90年代に入ってくると、その程度がかなり弱くなる。8集から10集まで、ほとんど2年に一度の割合でアルバム発表しながら、活発なライブ活動も続けるが、ただ一曲のヒット曲がないのは残念な部分である。
イ・ソンヒ個人的には、結婚と離婚が続きながら、難しい時期を送った。だが、着実にライブとミュージカルなどの領域で活動してきた彼女は、2001年には自身の歌手生活を振り返って新しい作業を兼ねた12集「My Life + Best」を発表し、このアルバムにはパク・チニョン、キム・ジョンソのような後輩ミュージシャンが参加した。
2011年
2011年2月3日に世界的な歌手だけが立つことのできるというニューヨークのカーネギーホールの中でも最も大きいメイン公演会場である「アイザック・スターン オーディトリウム」で韓国の大衆歌手では3番目に単独公演を持った。2800席余に達する座席が皆売り切れという大記録を立てて、韓国人で最多観客動員でニューヨークの韓人史のある一線を引くことになった。
国内では2011年5月21日と22日、ソウル世宗文化会館での公演を始め全国巡回公演に出る。
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(来年2014年は、イ・ソンヒのデビュー30周年にあたるのでいろいろと追記されるだろう)
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イ・ソンヒは、1984年歌謡界にデビュー、以後立て続けに急成長して人気を享受し、90年代初めまで最も人気ある女性歌手であった。
80年代後半まで、彼女は全盛期には、どんな男性歌手よりも女学生ファンを多く引き連れたし、特に可愛いらしいイメージとボーイッシュなイメージを同時に持つ、彼女の容貌と服装は女性たちの熱狂的な支持を勝ち取った。彼女はまた、小柄に似合わない最高の歌唱力を持つという評価を得る。
1984年
イ・ソンヒは1984年の「河辺歌謡祭」で、イム・ソンギュンと共に「4幕5場」チームで出場、「Jへ」で
彼女は、1985年「4幕5場」チームが事実上瓦解して単独でデビューする。デビューアルバムは
イ・ソンヒの音楽に変化が起き始めたのは4集アルバムからだった。「愛が散るこの場所」・「私はいつもあなたを」(1988)、「私の街」・「5月の陽射し」(1989)、「なぜ私だけ」・「思い出のページをめくれば」(1990)に続く4、5、6集は、全て大衆的に良い反応を得たが、以前と同じ程ではなかった。
だが、作曲家ソン・シヒョンに出会い、歌詞とメロディでずっと叙情性を追求し、一層成熟した音楽への意欲を見せる。当時のヒット曲である「愛が散るこの場所」、「ひとしきり笑いで」、「私の街」、「思い出のページをめくれば」などは、そういったスタイルを反映する。
その上、シン・ジュンヒョンの原曲である「美しい山河」は、原曲とはまた違ったすがすがしく軽快な味をプレゼント、国民歌謡と認められていまだに彼女の各種行事でこの曲を熱唱するのを見ることができる。
1990年代-2001年
イ・ソンヒの人気は、90年代に入ってくると、その程度がかなり弱くなる。8集から10集まで、ほとんど2年に一度の割合でアルバム発表しながら、活発なライブ活動も続けるが、ただ一曲のヒット曲がないのは残念な部分である。
イ・ソンヒ個人的には、結婚と離婚が続きながら、難しい時期を送った。だが、着実にライブとミュージカルなどの領域で活動してきた彼女は、2001年には自身の歌手生活を振り返って新しい作業を兼ねた12集「My Life + Best」を発表し、このアルバムにはパク・チニョン、キム・ジョンソのような後輩ミュージシャンが参加した。
2011年
2011年2月3日に世界的な歌手だけが立つことのできるというニューヨークのカーネギーホールの中でも最も大きいメイン公演会場である「アイザック・スターン オーディトリウム」で韓国の大衆歌手では3番目に単独公演を持った。2800席余に達する座席が皆売り切れという大記録を立てて、韓国人で最多観客動員でニューヨークの韓人史のある一線を引くことになった。
国内では2011年5月21日と22日、ソウル世宗文化会館での公演を始め全国巡回公演に出る。
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