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●資料:이선희 Profile (自伝~1991年、27歳まで)

以下は、イ・ソンヒが誕生から27歳当時までの生い立ちを、さまざまな思い出とともに、暦年スタイルで綴ったものである。


2013年9月22日日曜日

(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」


イ・ソンヒのプロフィールについては、ネット上でいろいろと見ることができるが、信頼できるメディアに掲載された彼女自身の言葉を探していたところ、なんと12年前の「スポーツ韓国」紙面(1991年3月8日~4月5日)に、12回に渡って掲載された彼女の「スター・ストーリー」があった。

イ・ソンヒ27歳のときの言葉であり、生硬さも感じられるが、時代と人生を経過した現在、変化や相違があるかもしれないものの、貴重な記録(事実)も含まれているのでここに資料化したい。

内容は次の通りである。(感謝)

(本ブログ関連:”資料:이선희 Profile”)

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[目次] 小さな巨人 イ・ソンヒ
http://sports.hankooki.com/starstory/people/lsh/lsh_main.htm

[1] 余裕のアピール力を持った歌手
http://sports.hankooki.com/starstory/people/lsh/lsh1.htm

[2] 私が三歳も若く生きることになった理由
http://sports.hankooki.com/starstory/people/lsh/lsh2.htm

[3] 宗教者である父と、自然と友だった幼い子ども時代
http://sports.hankooki.com/starstory/people/lsh/lsh3.htm

[4] 頻繁な転校と、「病気っ子」といわれていた国民学校(小学校)時代
http://sports.hankooki.com/starstory/people/lsh/lsh4.htm

[5] 私はもうこれ以上内気な子どもではなかった
http://sports.hankooki.com/starstory/people/lsh/lsh5.htm

[6] キリギリスのように歌いながら高3の熱い夏を...
http://sports.hankooki.com/starstory/people/lsh/lsh6.htm

[7] 「江辺歌謡祭」の裏話
http://sports.hankooki.com/starstory/people/lsh/lsh7.htm

[8] 夜の舞台時代の警備員の話
http://sports.hankooki.com/starstory/people/lsh/lsh8.htm

[9] 忙しい活動の中の毎日
http://sports.hankooki.com/starstory/people/lsh/lsh9.htm

[10] 「それが歌なの 発声練習では」
http://sports.hankooki.com/starstory/people/lsh/lsh10.htm

[11] 私の華麗な事件
http://sports.hankooki.com/starstory/people/lsh/lsh11.htm

[12] 統一のための触媒になりたい
http://sports.hankooki.com/starstory/people/lsh/lsh12.htm

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2013年9月25日水曜日
(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「1.余裕のアピール力を持った歌手」

先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された、イ・ソンヒ27歳当時の「スター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第1回目をここに載せたい。感謝。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)


[1] 余裕のアピール力を持った歌手
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ゆらぐる思い出のページをめくれば
ああ、遂に果たせなかった悔しさと侘しい贖罪が

むかしのことのように、ぼんやりとかすむ窓枠の塵(ちり)のように
ああ、胸に積もるよ、今は遠ざかったあなたの微笑みのように

雨風がなくても春は来て夏は行く
ああ、あなたよ・・・涙がなくても、花は咲き葉はやがて散る

ああ、わたしに残った懐かしい歳月を浮かべて、眠りにつくよ、夢を見るよ・・・


私の6集アルバムに入っている、ソン・シヒョン(송시현)作詞・作曲の「思い出のページをめくれば(추억의 책장을 넘기면)」の歌詞である。今、私の心境はこの歌の歌詞とほとんど差がない。1984年MBC FMの「江辺歌謡祭」で大賞を受賞して以来、過去7年間の歳月は、国内外での数々のコンサート、アルバム発表、ミュージカル出演、そして自作詩集の出版などで息つまるように突き進んだ日々だった。

今しばらく自分自身を整理してみる機会を持たなければならない。ただ音楽に対する熱い情熱一つで声を限りに歌い続けながら、マスコミによって一日で「歌謡界のシンデレラ」になった気持ちを満喫していた当時、ちょうど二十歳の年齢は、いつのまにか27才の女性に成長した。

周りの環境も色々な変化があった。デビュー当時、余裕がなかった家の暮らしも、今はかなり豊かになった。少年少女の歓声と拍手喝采の中にひたすら自惚れていた私はその間に、「公人」としての大衆歌手の役割を考えてみるようになった。それで、今盛んに進めているのが北朝鮮でのコンサートである。叶うなら、平壌の舞台の上で倒れることがあっても、全てを注いでしまうだろう・・・

私を大切にしてくださるファンも、むかしは青少年層一色だったが、今はその方が結婚もして職場も持ち、また、大学に進学したりしているからか、10代から30代に至るまでまんべんなくファンレターを送っていただいている。

その間、私は「歌唱力が優れた歌手」という評をしばしば聞いてきた。そうするうちに、いつからか私はダイナミックでパワーあふれる歌がまさに私だけの個性だと信じるようになった。

だが、6集アルバム「思い出のページをめくれば」では、成人趣向だがスローな味の歌が主流をなす新しい試みでファンに「イ・ソンヒも余裕のアピール力を持つ歌手だ」という認識を一新したことは大切な収穫だ。

今後もずっと、既存の人気に安住せず、冒険になるとしても明るくて希望に満ちたメッセージを歌に入れる作業を継続しようと思う。

今後、この欄を通じて、はじめて私の存在が世の中に知らされた後の7年. そしてそれ以前の20年を淡々と書いていく。まだ多くの人生経験をしたとはいえない私だが、歌謡生活を中間決算するという心掛けで私が過ぎた27年を飾り気なく告白しようと思う。
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2013年10月5日土曜日
(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「2.私が三歳も若く生きることになった理由」

先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された、イ・ソンヒ27歳当時の「スター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第2回目をここに載せたい。感謝。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)


[2] 私が三歳も若く生きることになった理由
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小さいことは美しいんですって?
わたしは背が小さくて、
あなたはわたしを見おろしているじゃない。

まるで、小さな子どもを相手にするように、
あなたはわたしを子ども扱いする。
けれど、わたしは大人よ。

それでも、あなたの前ではどうしようもありません。
胸がドキドキするのに、
顔が赤らむのに、
何の文句を言うことができないのです。

大きくなりたいです。
あなたの心の中で。
あなたの寝ついた間に、こんなに大きくなって、

朝になったら、あなたは見つけるでしょう。
手に負えないほど大きくなってしまったわたしを。


私の自作詩「小さな不満(조그마한 불평)」の全文だ。

私は(陰暦)1964年11月11日忠清南道保寧郡珠山面篁栗里257番地に生まれた。

父(이종규、54歳)、母(최병문、.52歳)は、私が最初の子供なのでそれとなく息子であることを期待したようだ。

更に母の胎夢は唐辛子畑で草取りするものであり、父は裏山で虎が家の垣根の中に入ってくる夢を見たので、内心息子であることを確信したという。

    (参考)「(資料)胎夢

「唐辛子」は言うまでもなく、「虎」も勇敢な男児の象徴だから、息子を望んだのもそれほど無理はなかったと思う。

いずれにせよ私は女の子で世の中に出てきて、山の神を意味する虎の夢のために、私の名前には、神仙の「仙」が入るようになった。

    (参考)イ・ソンヒの漢字名は「李仙姫」である。

娘が生まれただけでも残念なのに、新生児のときの私の姿は、それこそまともに一人前に用を果たすことができるかと疑がわれほどに、「姿」が言葉にならなかったという。両親によると、頭の大きさが体の正確に2倍だった。

私の戸籍上の生年月日は、1967年3月10日である。出生届は3年も遅れたのだ。
書類上は、この世で3年の間、存在していなかった他ならぬ私であり、みれば自然に色々な憶測も多かった。

    (参考)修正届けの遅れは、後の彼女のソウル市議会議員選挙立候補で問題となった。

未熟児なのですぐに死ぬと早合点をして、最初から出生届を先送りしたとか、あるいは戸籍上には64年生まれになっているが67年生まれのふりをして通しているとか・・・。

不本意ながら、なんと三歳も若返ることができた根本的な原因は、祖母と父との間の「コミュニケーション上の錯誤」だった。

その時も今も、常に寺と家を行き来している父は、私が生まれた直後に再び入山した。寺に入った父は、祖母に出生届けを頼んだので、当然戸籍に登載(登録)されていると考えていて、祖母は、昔の田舎の老人たちが当然そうであるように、うっかり忘れていたという。

そのせいで67年に生まれた私の弟も、私の戸籍上の年齢に合わせて出生届を1年遅らせなければならなかった。

大学卒業後、繊維芸術系で働いている弟は、私のために一才ほど減ってしまったことを返って幸いに思っている。 1年の浪人の末に大学に入ったが、各種の書類上は明らかに私の年齢で入学したわけだ。
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2013年10月24日木曜日
(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「3.宗教家である父と、自然とともに過ごした幼い子供」

先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第3回目をここに載せたい。感謝。

イ・ソンヒの幼い頃の祖父も含めての家族愛や、「音域の広い」彼女の声が「父から受け継いだ」と語る影響について・・・知りたかったことだ。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile


[3] 宗教家である父と、自然とともに過ごした幼い子供
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私が三歳になった年である1966年、両親は私を連れて忠南(忠清南道)の保寧からソウルに移住した。初めての定着地は城北区三仙洞だった。

当時、父は大韓仏教「一乗宗(일승종)」の宗会議員と同時に、仏教音楽「梵唄(범패)」の伝授者であった。

    (注) ネット上で、イ・ソンヒの父親の所属宗派を「太古宗태고종)」と記されることがあるが、この記事から(当時)「一乗宗」が正しいようだ。なお、「一乗宗」の正式な成立は1969年とされ、この年に大法院裁定により韓国仏教の最大宗派となる「曹渓宗(조계종)」と「太古宗」が正式に分離している。
    (注) イ・ソンヒの家族が保寧から転居したソウルの城北区内に「一乗宗」の一乗寺がある。
    (注) 一乗宗の「主な宗団機構は宗正の下、宗務全般を掌握する総務院、糾正(きゅうせい)機関である監察院、議決機関である宗議会などがある。」
    (注)「梵唄」については、「太古宗」との関連がネット上で話題にされることが多い。

父の身分が僧侶だったために、所属寺院が変わるたび、わが家は引越し荷物を荷造りしなければならなかった。

そうするうちに、私は仕方なく国民学校だけ六ヶ所を転々と移り渡った。友人とちょっと付き合うだけで、校歌を覚え歌うことができるようになると、私はまた間違いなく見知らぬ学教に転校しなければならなかった。私も知らぬうちに性格は内省的に沈んでいった。

ときおり近所の子供たちとケンカをすると、その悪童たちが必ず私の父をあげつらった。「僧(중)」がどうしたといいながら。朴景利(パク・キョンニ、박경리、1926年~2008年)先生の小説「土地(토지)」で、年齢の幼いキルサン(길상)が悪童に「僧」と冷やかし受ける気持ちを十分に理解することができた。

    (注) 韓国仏教における妻帯の問題は、歴史上の課題でもあった。⇒ ”韓国仏教

自然に私と同じ年頃の子供たちと一緒に過ごす時間が減り、周りの山、木、花、鳥そして風と親しくなった。

(ちなみに)ネパールに「導師」が多いのは、両親が仕事に出て行った後、一人で自然に接して成長した子供たちが多くてとか? とにかく私は木と草に群がる虫たちと話をして育った。

もちろん幼い時からひたすら叙情的で思索的だったことは決してない。森の古木の木の上に綱をぶら下げてターザン遊びをして時間の経つことが分からなかったし、休みになれば田舎の祖父の家に行って明け方から川岸のフナを(網で)すくいてあげた。また、真夜中に近所の野菜畑を堀り散らしに行くマクワウリとスイカ荒らしで、蚊に刺されていることも分からなかった。

ソウルではひょろひょろしっぱなしの私だったが、田舎に行ったら全身に力が湧き、敏捷で活き活きするようになった。

ソウルでも、やはり父について移動も何度もしたが、行く所ごとに常に鬱蒼とした森があった。父の勤め先(?)である寺はたいてい山の中にあるのだから。

ところで日曜日になると、悪い鳥捕りたちが空気銃をかついで「私の森の中」に狩猟にきたりした。
彼らが去った後、かわいそうにも死んだ鳥が数匹ずつ散在していた。
私は、目に映りしだい死んだ鳥のために墓を作った。墓の上に小さな木の枝で十字架を作ってさした。

ところが、まさにその木製の十字架のために、寺にいらした僧侶たちにひどい目にあったことがある。仏さまを祀った寺院のあごの下に、どうしてあえて十字架を差し込むことができるかということだった。そこまで考えが及ぶことができなかったことではないが、さりとて私の腕前で「卍」の字形を作ることは到底できなかった

私の子供時代の思い出は、祖父と父から始まる。

私の考え方や価値観に大きな影響を与えた宗教家としての父、そして特に私だけを心からも愛してくれた私の祖父。

懐かしさは、明け方の山腹を取り囲んで染み入る雲であり、灰色がかった舗道の上に溶けて落ちる白い雪であり、激しい風の末に立っている弱い木の枝だ。

会いたくて懐かしい祖父. その祖父は私が中学校2年の時に亡くなった。だが、あなたのその実直だった姿はまだ私の両目に浮かぶ。

祖父は田舎に住んでいたが、いつもソウルの我が家に来てくれて何月も留まったりした。そのたびに、祖父は古物の自転車を引いて下校時間の2時間前から校門の前で私を待ってくださった。

自転車の後ろの席に座って帰宅する気持ちは喜びそのものであった。祖父は明け方のたび、私を連れて泉(薬水)の汲み場に行った。昔も今も、明け方の静かな泉には騒々しいちびっ子の出入りは禁忌視されているけれど、私だけ祖父の「こね」のおかげで、近所の老人たちが掌握していた泉でも自由にできた。

休みのたびに田舎の祖父の家に行けば、祖父は一日中私の手を握って、野原で山で、歩きながら無数の昔話を聞かせてくださった。

田舎の家の裏庭にある竹で「洞箫(퉁소)」(尺八に似た笛)も直接作ってくれたし、クヌギの木で手作りで「ユッ」(小ちいさな丸い棒切れを割って作る四本一組の遊戯具)も切ってくれた。

    (注) ユッは、ユンノリ(윷놀이)遊びに使う。

祖父と私が散歩に出て行くたびに、祖母は袋いっぱいニンニクとネギを満たして祖父に渡したりした。祖父はそんな生ニンニクとネギが好きだった。

あちこち歩き回って脚を休ませようとすれば、祖父と私はニンニクとネギを食べた。口の中がとてもヒリヒリしたら、地面の穀物の穂を拾ってモグモグ食べながら。

考えてみれば、何の科学的根拠もないが、その時そんなにたくさん食べた生ニンニクが私の大きく高い声(高声)の源泉ではないだろうか・・・。

祖父は当時、日毎に変化した時代の潮流とは塀を築いた方だと父はいった。

伽耶琴(カヤグム)と唱を楽しんだ、常に高尚な人(ソンビ)としての風流が好きな方だった。また、外来の文物に対してはほとんど本能に近い警戒心を抱いておられたので、父を新式の学校に送るのは不合理な話だったようだ。

新しい学問に接する道が塞がってしまった父はそれでも何かを学ばなければならないと決心し、ある日さっさと単身寺に入られた。山寺で仏教思想の奥深さ(玄妙)に夢中になった父は永遠に仏と共に生きていく心を決めたという。

父の仏心は家族には薄情と感じられるほど敬虔だった。そのせいで母は家と寺の間を上がり下りするのに、気苦労、体の苦労が非常に激しかった。

父の仏心は、ある夏の日、土砂降りのようにあふれた豪雨で水騒動が起きた時、そしていつだったか、私の不注意で山火事を起こした時に如実にあらわれた。

国民学校の低学年の時だったと記憶している。だから70年代初期ぐらいだ。あまりにも引越しをたびたびすると町の名前もぼうっとする。三仙洞か敦岩洞か、もしかしたら論硯洞か新林洞なのかも分からない。

とにかくその時も、父は家の後方にある山中の寺にいたし、私たちの住居は山麓にあった。

その年の夏、数日をおいて空があいたように豪雨が降った。寺は高い山中にあるのでこれといった水害にあうわけはないが、ふもとにあった我が家は途方もない水騒動を体験しなければならなかった。

谷川があふれると、いつのまにか真っ赤な黄土水が家の前の梨畑を襲って中庭に迫った。母はあわてて木板などをごちゃごちゃ集めてイカダに似たものを作った。私と弟はあたかも渡し舟に乗っているような気分で、恐ろしさはおろかかえって楽しいだけだった。

その瞬間、寺から息を切らして走って降りてきた父が庭に入った。子供の目にも父の顔に心の余裕がない表情を読むことができた。「ああ、母と私たちが心配になって来たんだな。」

ところがそうでなかった。父は部屋に入るやいなや祭器、蓮の提灯、窓戸紙など寺で使う物を取りまとめ始めた。薄情だった。母性愛と父情の間にはそのように大きい差があるのだろうか?

その夏の水騒動に続き、その年の晩秋には「火事騒ぎ」があった。

深い山中の寺刹も人の住む所だと、毎日毎日ゴミがでた。ゴミを一度に捨てに下山することはできないことなので、たいてい寺近くの空地でゴミを燃やしてしまったりした。

今考えれば、乾いた落葉の覆いかぶさった山中で火をつけることがどれくらい危険千万なことなのか、めまいがするが、とにかく出たその日のゴミの山に燃料を入れて火をつけると、火は風に乗って広がり山の3分の1ほどを焼いてしまった。山火事はたまたま降った雨で消えた。

火が広がる兆しが見えるやいなや、私は遁走を決めた。突然怖くなったためだ。怒られるのが恐ろしくて家にも入れぬまま、夜12時まで雨が降る晩の秋山の中で寒さに震えた。

家で私を探しに出た気配も全くなかった。結局、寒さと腹ペコということと山の獣の鳴き声にこれ以上持ちこたえることができなくて家に入った。

父は鞭を持って私を待っていた。翌日、明け方まで私は涙がにじむように鞭で打たれたし、一場の訓戒(その場だけの戒め)を聞き終えた後、はじめて母の懐で寝つくことができた。

幼い時の父は、私に常に「恐ろしい人」だったが、音域の広い私の声は父から受け継いだようだ。

今でも父の声は素晴らしい「響き」を持っている。朝早く、目覚ましの音には起きられないでも、父の咳は家族全員を起こすほどで、たまに友人の方々を連れて家に来られる時も、「ここが我が家です」という声が家まで聞こえてくる。強いてベルを押す必要がないのだ。
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2013年11月16日土曜日

(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「4.頻繁な転校と、『病気っ子』といわれていた国民学校(小学校)時代」


先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第4回目をここに載せたい。感謝。
イ・ソンヒの小学生時代の音楽経験について、例えば学芸会的なこと、子供向け音楽コンクール公開放送への出場など・・・知りたかったことだ。それに可愛い片思いの話も。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)


[4] 頻繁な転校と、「病気っ子」といわれていた国民学校(小学校)時代
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1972年3月、私は(ソウルの)城北区新洞国民学校に入学した。戸籍上、6歳であったから他の人々より2年先に学習の道に入ったわけだが、その時の私の本当の年齢は9歳だったので、むしろ一年遅れたわけだ。とにかく、私にとって国民学校への進学は以後度重なる「転校」の開始だった。

    (注)年齢はすべて「数え年」

しばらく「留まった」学校でなく、それでも「在学」したと話せる学校を取り出せば、新洞、論峴、敦岩、梨泰院国民学校などだ。卒業証書を受けたところは、5年の2学期のときに転校した梨泰院国民学校だ。

    (注)イ・ソンヒは父親に従って「国民学校だけ六ヶ所を転々と移り渡った。」(第3回 参照)

私は国民学校の時も、やっぱり同年輩より体つきが小さかった。6年を通して背番号の1番は私の一人占めだった。背のせいで運動場の朝会のたびに、最前列で先生と向かい合い、緊張の中に立ち続けねばならなかった。

ニックネームも「ヤマコ(『ちびちゃん:コマヤ꼬마야』を逆に)」、「テチュッシ(ナツメの種 대추씨:小柄ながらたくましくがっちりしている)」、「ちび(ジュイバンウル 쥐방울:不釣合に小柄)」など超小型だった。6年生になっても大人(?)と見違えるほどの3年生の後輩たちに「や~、~(し)よう」調のぞんざいな言葉にあう侮辱を受けたりもした。

私は背中に背負われるのにとてもなじんだ。母に背負われて登下校する姿が気の毒に見えたのか、体の大きな子供たちが時おり私を背負ってくれたりもした。

幼い頃から体が虚弱な方だった私は、体育の時間になると教室に残ったり、運動場のかげに座ってじっと見守ったりした。先生や友達に最初から「病気っ子」とつけられた私は、休みのたびに田舎で飛び回りながら体力を固めた後でも依然として、「病気の人、手をあげなさい」といえば、「この子で~す」と子供たちに指摘される「慢性患者」になってしまった。体操着に着替えるのもわずらわしいので、とても幸いなことだった。

しかし、よくある軽い病気がちでなく、どうして私が「病気っ子」であることを認めることができるだろうか。私は風邪が流行するたびに、一度も罹らずうつったことがなかった。また、病名は忘れたがかなり深刻な病気にかかった時もあった。国民学校4年生の時だったか、学校で手配してくれた病院でかなり長い間、通院治療を受けたことが思い起こされる。

私は3年生の時、およそ6ヶ月間、ガールスカウトで活動したことがある。

野営生活などを通じて心身を健全にできる良い機会であるとを何度も強調して、両親から入団の承諾を受けたが、内心目的は他の所にあった。

私が目指したのは、隣りのクラスの格好いいボーイスカウト隊員だった。女の子に人気が高かったあの子と自然に親しくなることができる方法は、私がブラウニー(Brownie:ガールスカウトの小学校低学年に相当の部門)になる道だけだった。ボーイ、ガールスカウトの合同集会などを通じて、ある程度その子と近づいたと満足していた頃、その少年はある日突然転校してしまったし、私の「第1の目標」が視野から消えたので、何の未練なく幼女隊(ブラウニー)を脱退した。

私は国民学校の時から、歌だけはどこの誰にも引けをとらなかったと自負する。

どんな場所でも歌を歌えといわれれば、遠慮したりとか、後の方をはずすことが一度もなかった。 かえって、「歌を歌うに値する場所はないのか」といいながら、ここかしこをのぞき込むほどだった。

いつだったか、国語の教科書に出てくる「森の鍛冶屋」という演劇をしたことがあった。各クラスを回っていた一種の「巡演」であったが、私が引き受けた配役は「スズメ」であった。理由はただ一つ。スズメ役の台詞部分が歌になっていたためだ

一人でも歌うことができる歌、二人でも歌うことができる歌、多数がまじり合っても歌うことができる歌、そして歌が私になり、私が歌になる歌... 私はいつもそのような歌を歌いたかった。

「イ・ソンヒは歌が上手だ」といううわさは全校に広がったし、ある日、担任の先生がTV子供童謡大会に参加してみることを薦められた。それは4年生の時だ

私は、「森の中の鍛冶屋」の演劇公演で「スズメ」に扮装して歌ったまさにその歌を歌って、KBS TV の(公開放送)「誰が誰がお上手か(누가누가 잘하나)」の1次予選を軽く通過した。

自信を得た私は、2次予選では歌の小節小節ごとに「雰囲気(멋)」をいっぱい入れて歌った。結果は脱落だった。私は今でもその時、情熱をつくして「童謡らしく」歌ったと信じる。国民学生があたかも「子おとな」のように童謡を歌謡調で歌って審査委員を当惑させたという話も聞いたが、私の胸の内はそうでなかった。もう少し上手くしようと、自ら「技巧」を働かせただけだった。とにかく当時の「予選脱落」は、私にとって大切な経験だった。「二度と上っ面だけのふりはしないだろう」。
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2013年11月24日日曜日

(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「5.私はもうこれ以上内気な子どもではなかった」

先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第5回目をここに載せたい。感謝。

イ・ソンヒが多感な中学時代に経験した、ジム・リーブス、レイフ・ギャレットなどの音楽や、教師との出会いを、そして夢膨らむ高校時代に、5人組(歌)の音楽グループ結成などを知ることができた。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)


[5] 私はもうこれ以上内気な子どもではなかった
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▼ 1978年、私は信光女子中(신광여중)に入学した。制服を着て頭は髪を短くしたから良かったものの、ややもすれば国民学生(小学生)と間違えられるほど私は依然として小さかった。

2年生のときまでやはり1番、3年生のとき背番号は62番だった。私が突然成長したのでなく、3年生のときは背の大きさの逆順で番号を付けたためだ。

だが、声だけは誰よりも大きくて冴さえていて、音楽の時間はそれこそ「ほとんど私の独壇場」であった。

秋の運動会や遠足の道で、私は必ず招待歌手のもてなしを受けた。パティ・キムの「初虞(초우)」やジム・リーブス「(彼は)行かなければならないだろう」を好んで歌ったし、校長先生は歌が終われば私を呼んで直接飲み物をついでくださって、ほめられたりした。

    (注)記事には”짐.브리스”とあるが、ジム・リーブス(Jim Reeves)の誤記と思われる。

私は音楽の教科書に入っている歌曲や民謡よりは、ラジオに流れてくる韓国歌謡により一層心が引かれた。

ラジオ歌謡に従って口ずさみながら本を読むのは何ににも変えることのできない私だけの時間、私だけの幸福だった。

中学時代に出た活字化された印刷物は、何でも片っ端から読んだ。それこそ多読雑読というほど。歌謡だけが全てだと思っていた私は、中学校2学年の時、はじめてポップ・ソングの魅力を感じることになった。

金髪をゆらゆらと垂れた美少年歌手レイフ・ギャレット(Leif Garrett)のソウル公演が契機であった

(1980年の)ギャレットの公演には、色々な話も多かった。当時、一部の興奮した若者たちが肌着を脱ぎ捨てたり、発作を起こすまでするなど、マスコミの言うように「狂気」を見せたその現場に私もいた。

しかし、会場である南山の「崇音楽堂」に入るまで、レイフ・ギャレットがそれほども評判のいい歌手だとは、本当に知らなかった。ただし、ライブではなく、録音された曲に合わせて口を開ける(口ぱくな)誠意のない公演だったが、不自然でないほどアクティブなギャレットの舞台マナー、幻想的な光の中でさらに多くの光線を噴出した彼の容姿、そして客席の床まで振動が感じられるほど爆発的なサウンドは、私に大きな衝撃を与えた。世の中にこんな歌もあったんだ。

彼の公演以後、私の愛聴ラジオ番組の目録には、深夜のポップソング番組が追加されたことはもちろんだ。恋人に「すっぽかされた」友人の兄さんに無料でもらった、レイフ・ギャレット コンサート チケット一枚が、私を新しい音楽世界に引き込んだのだ

中学時代の私は、永遠に忘れるができない恩師の一人に出会った。国語科目を担当しておられたヤン・ソンオク先生がまさにその方である。

授業時間ごとに、私が国語の教科書を読む姿を注意深く見守られた先生は、ある日私を教官室に呼んだ。学生が教官室に呼び出されれば十中八九「ひどい目にあう」ことが決まっているであろうために、私はいっぱい緊張した状態で教官室に入った。

だが、意外に先生は私の声がとても朗々(낭랑)として発音も正確だといって、雄弁班に加入することを薦められた。先生は、ご自宅に私を引き連れて、雄弁練習をさせるほど熱心であられた。結局、私は校内雄弁大会で優秀賞を受賞することによって、先生の愛情に少しでも恩返しをすることになった。「最優秀賞は逃したものの、2等はなんともはや」

雄弁を通じて、内省的な性格がある程度「改造された」私は、合唱団にも入ってソプラノで活動したし、学芸会の時は(児童劇の)「靴直し屋と銀行頭取」という演劇に主演で出演したりもした。私の演技がよほど実感できたのか見物にきた高校生のお姉さんたちも絶賛した。すべてにますます自信が生じた。

周辺に友人も一人、二人増えていった。学校生活も楽しいばかりだった。

行きがかりで私は指揮者として前に出た。校内合唱大会で優勝した私たちのクラスは、教育区庁大会にまで進出した。

    (注)教育区庁:ソウル特别市など広域市の教育委員会下部执行機関。

ただし、ランキングに入れなかったが、世宗文化会館の舞台に立ったという事実、しかも舞台上の小さい舞台である指揮台に上って格好良くフォームをつけて指揮をしてみたという事実だけを考えても、(ランキングに入れなかったことを)うらやむことはなかった。

前述したように、中学校時代、私は片っ端から本を読んだ。特に「ロミオとジュリエット」は何度も繰り返し読んだ本だ。

そうしているうちに、孔子の「韋編三絶(一冊の書籍を繰り返し繰り返し読む)」という話そのまま、文字通り本自体がボロボロになった。ロミオとジュリエットの年齢が私とほぼ同じなので、それだけ共感の幅も大きかったようだ。

韓国近現代の名作や世界の名作という古典は、それなりの基準を持って読んだ。いくら不朽の傑作と評価される小説でも、ある程度読んでつまらなければ、二度と調べてみなかった。今でも、興味の要素が欠如した文は、めったに読まれない。だが、かなり重い主題を下地にしていても、プロットや表現、または気持ちにすっぽり入る登場人物があれば明け方まで火を灯す。

探偵小説の類いと武侠誌も私の読書履歴で絶対に欠かすことのできない本だ。ルパンは、無性に小面憎かったし、シャーロック・ホームズはとても素晴らしく感じられた。日常生活でも、あたかも探偵にでもなったように塀に背中を密着させて、左右をきょろきょろ見回しながらわけもなく敏捷なふりをしたりしたし、教室で鉛筆一本がなくなっても、犯人を捕らえるといったあらゆる推理を動員したりした。さらに、夢の中ではプロックコートにチェック柄の帽子、その上パイプまで口に咥えてワトソン博士とコーヒーを飲んだりもしたほどだった。

漫画本もたくさん見た。最も感動を覚えた漫画は「ガラスの城」だ。ありふれた文芸作品より、はるかに秀作ということを今でも信じて疑わない。「キャンディ」はそれほどであったし、「男女共学」も「アカシア」もとてもおもしろく眺めた。夜遅くまで、小説と漫画にはまってみると、中2の頃、視力が急激に落ちてメガネが必要になった。今使っているメガネも、その時の小説と漫画のお陰だ。

中学校の時は驚くべきことに、ただ一度も学校を移ったことがなかった。ときおり、信光女子中の後輩から「信光が産んだ2大スターは、ソンヒ姉さんとタレント イ・ミスク姉さんです」云々という手紙を受けるたび、はっきりした母校を持っていることをとてもに幸いに思う。

▼ 1981年3月、私は祥明女子高(상명여고)に進学した。私は、もうこれ以上内気な子どもではなかった。

歌が好きな友人たちと5人組グループを結成して、活発な演奏活動を広げることもした。

ところで面白いことに、私たちのグループの名前はなかったのだ。昨日は「アカシア」であって、今日は「クリスタル」という式で、メンバーの気分のままチーム名称を変えたりした。

私たちは、養老院や孤児院を訪ねて行って慰問公演を繰り広げたし、校内サークルであるRCT、MRA(道徳再武装運動:Moral Rearmament)、ガールスカウトなどの招待を受けて、きれいな和音を入れることもした。私たちのグループの「名声」は口から口へ広まった。

    (注)RCT: サークルについて不明

そのようなある日、近隣の男子高等学校で祭りの時、特別ゲストに私たちを招待するというではないか、胸がむやみにときめいた。

当時、私たちの5人組グループ・メンバーは、私をはずしてみなスマートで美しかったが、特にピアノを担当した友人は「絶世佳人」というに値するほどの美女であった。

講堂をいっぱい埋めた丸坊主の男子学生の視線が、ピアニストに集中したことは自然の「摂理」であった。

だが、順序に従い、私が独唱を終わらせた時状況は逆転した。思いもよらぬ度外れた歓呼と拍手喝采の中で「アンコール、アンコール」の要求がとどまるところを知らなかった。その時から、私は男子学生が「よそ見」しないように、彼らの目と耳をぎゅっとつかむのに成功した。同じ年頃の少女たちに認められた私の歌が、少年たちにも通じる可能性があることを確認した貴重な舞台であった。

私は歩くのが好きだった。高3の時まで地下鉄があることも分からないほどだ。バスもほとんど利用することがなかったので、バスに乗るたびに友人にバス料金を確認しなければならなかった。

登下校するたびに、必ず通り過ぎなければならない三角地(삼각지)陸軍本部近くの街路樹の道を私はとりわけ好んだ。帰宅途中に、友人とともに小道に沿って歩きながら楽しんだ「カバンかつぎ」は、今でも鮮やかに目に浮かぶ。

ジャンケンに無性に強い私なので、友人が私のカバンまで持たなければならない場合が大部分だったが、たまたま私が友人のカバンを持つことになる時は、(さらに)カバンの一つ持つことで恥ずかしい思いを受けなければならなかった。

ひとまず私は、二つのカバンを開きあけて中身をみな取り出した。それから教科書や辞書、重い参考書などをカバンの一つにまとめ入れて、こわれやすい物や軽い物などで、他のカバンの一つを満たした。

その次の段階は、「投げること」の連続だった。力いっぱい手前にバッグを投げては取り・・・

ある日のこと、通りすがりの黒人兵士の一人が痛ましく見えたのか情けないと感じたのか、つかつかと大股で近寄ってカバンの二つを持ってくれたこともあった。

1年生の2学期末から、私は絵にすっかりはまった。だいぶ素質があるように見えたのか、美術の先生は学校付近の画室を推薦してくださった1年と一学期をさらに通ったから、かなり長い期間を染料の臭いの中で送ったわけだ。

父は、私が絵に没頭することがやはりとても不満だった。「お前はやれという勉強はしなくて、よりによって『芸人』、でなければ『金稼ぎ』か」といって、筆や染料を目につき次第なくしてしまった。

母はそれでも「あなたが、そんなにもしたいのであれば...」といいながら、父にこっそりとアトリエ(画室)の登録費や美術道具代を渡してくれたりしたが、結局父の厳しい反対で画家の夢は中途で放棄するほかなかった。
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2013年11月30日土曜日
(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「6.キリギリスのように歌いながら高3の熱い夏を・・・」

先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第6回目をここに載せたい。感謝。

イ・ソンヒが、高3のときに巡り合った音楽上の幸運、チャン・ウクチョ音楽室、作曲家イ・セゴンとの出会い、仁川専門大のときに音楽環境を整えようとした武勇伝、音楽サークル<4>(四幕五場)への参加、そしてMBC「江辺歌謡祭」への準備などを知ることができた。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)


[6] キリギリスのように歌いながら高3の熱い夏を・・・
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(父親の意向で)絵を描けないことになると、しばらく疎(おろそ)かにした歌がやりたかった。喉(声帯)がうずうずした。普段なにげなく通り過ぎた音楽学院の看板が、突然両の目に入ってきた。

その音楽学院は、当時ソウル駅と三角地(삼각지)の間に位置していた「チャン・ウクチョ(장욱조)組音楽室」だった

    (注)本ブログ関連:”チャン・ウクチョ音楽室

音楽室の門を叩いたが、職業歌手や芸能人になるという考えは夢にもなかった。事実、私は高等学校を卒業する時までも、友人が芸能界のスターを偶像のごとく崇拝する姿をまったく理解することができなかった。

いずれにせよ、「一度、思う存分歌でも歌ってみようかな」という、私心ない気持ちでチャン・ウクチョ音楽室に出入りし始めた。それが高3の時だ。

他の人びとは「高3病」(ストレス)だ。「入試地獄」といって盛んに「大学受験との戦争」に没頭している時、私は絵を描けないので、歌を歌おうと打って出たので、完全に「くそ度胸」だったわけだ。 率直にいって、大学に行きたい気持ちがあまりなかったし。

音楽室に出入りしたりしたが、正式に登録してレッスンを受けたわけではない。「芸能人になろうと決心したのか」と、それこそ目をむいて反対する家で、どうしてあえて受講料をもらうことができようか。私に金を儲ける能力があったわけでもなく。

世の中に無料がどこかにあるだろうけれど、私の歌の実力が音楽室でも受け入れられたし、一種の奨学生同様の待遇を受けることになる破格の経験をした。

チャン・ウクチョ音楽室に入って、歌を歌ってみたいと話すと、当時あまり名が知られなかった作曲家のイ・セゴン(이세건)、ソン・ジュホ(송주호)氏などが「一度、見せてください」と冷ややかな反応を見せた

私が全情熱を傾けて、ニール・セダカ(Neil Sedaka)の「きみこそすべて(You Mean Everything to Me)」(1960年)を終わらせた時、その方々は非常に満足な表情であったし、したがって私はいつでも喉が「うずうず」したら、音楽室に立ち寄るようになった。

1984年に(江辺歌謡祭で)、私に大賞の栄光をもたらし遭遇したのもまさにここだった。

実力は優れていたが、単に無名の新人という理由だけで、作曲家のイ・セゴン氏は、数多くの歌手に無視されなければならなかったし、心血を注いで書いたものは危うく永遠に、「J~、私はあなたを忘れた・・・」という、残念な思いをするところだったのだ。

    (注)本ブログ関連:”イ・セゴンと「Jへ」

家中の激しい反対を押し切って、時たまではあるが、音楽室で気が晴れるまで歌を歌うことができたのは、高3の時期、両親と「生き別れ(親離れ)」をしたおかげが大きかった。

父の所属寺院が(ソウルの南の)城南にある寺に変わったが、それでも高3の私を転校させるには大学入試が気にかかったようだ。

それで、私は祖母と三人の歳下のきょうだい達と共に、ソウルの梨泰院の家で「準-少女家長」の役をして生きなければならなかった。

    (注)イ・ソンヒは長女で歳下に弟がいることは知っていたが、更に2人のきょうだい(男女?)がいる。

遊んでばかりいた子どもも高3になれば、慌てて入試勉強に没頭するのが常なのに、なぜか私だけは万事泰平だった。

そのとき、私の心は、イソップ寓話に出てくる「アリ」よりも「キリギリス」の側に傾いていたようだ。だから、友達が夏の間、アリのよう熱心に教科書と格闘したときに、私はキリギリスのように歌いながら暑い夏を涼しくおくった。

学校の成績は、「正直」にもどんどん下に落ちた。しかし、心配もなかった。大学というところに対する羨望はそもそもなかったから。
▼ 「私は大学に行かないつもりだ」という話を両親の前でも大っぴらに言い放ったりしたからか、84年度の3月、仁川専門大(인천전문대)環境管理学科に合格しても、父は私が果たして滞りなくやっていくことができるかについて、まったく信じられなかったようだ。本当はそんなことしたくないけれど、娘が大学登録料(授業料)をこっそり引き抜いて隠すのではないか心配になって学校までついてきて、登録済証の印を何度も確かめた。

大学に登録はしたが、数十万ウォンの登録料があまりにも惜しかった。「そのお金さえあれば私がしたい音楽をいくらでもできるはずなのに・・・」考えた末に、私は環境管理学のとある教授を訪ねて行った。

今思えば一言で「話にならない」哀訴を教授にならべた。「私は歌を歌いたいのにお金がないのです。 だから、登録料の半分だけ返していただけないでしょうか?」、まあ、そんな話だったようだ。

しばらく、あっけにとられた表情をしておられた教授は、やがて私を説得し始めた。「音楽することを止(と)めるつもりはない。だが、学校まで止(や)めながら歌を歌わなければならないほど、切迫したわけではないじゃないか。熱心にやって、アルバムでも世間にまず出すようになったら是非手伝ってあげる。」

お言葉を聞いて見ると、句句節節(一言一句)正しい言葉なので、私は考えを改めて講義にも洩れなく出席し、大学新入生としての自由を謳歌した。

思う存分歌を歌うことができるところを物色した私は、校内の音楽サークル<4>の新入会員募集ポスターが目について一走りに駆けつけて入会した

    (注)ここでいう音楽サークル<4>は、いわゆる「四幕五場」を指すと思われる。

<4>のメンバーは、音楽の実力は優れていたが、ろくな練習スペースが備えられない状態であった。私は、入学時の登録料を回してほしいと教授に駄々をこねた「勝ち気」だけ信じて、学長室に「談判」の長途(長い道のり)についた。学長面談の結果は、大成功だった。 <4>は、学校の建物屋上にある片隅に、ついにみすぼらしくても専用の練習室を整えることができた。

1学年の1学期が終わって夏休みが始まった。<4>は、その年7月29日のMBC「江辺歌謡祭(강변가요제)」を目標に猛練習に入っていったし、私は私なりに本格的に声を整え始めた。私が狙ったのは、秋のMBC「大学歌謡祭(대학가요제)」だったので、江辺歌謡祭はテストする一種の前哨戦ぐらいに軽く考えていた。
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(Youtubeに登録のAshley Maxに感謝)



2013年12月11日水曜日
(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「7.『江辺歌謡祭』の裏話」

先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第7回目をここに載せたい。感謝。

イ・ソンヒが、いよいよ才能が世に見出される瞬間の「江辺歌謡祭」での大賞受賞にかかわる数々のエピソード、あるいは出場したときの名前のセンシティブな情報など・・・まさに数々の裏話を知ることができた。(今回、原文中に特定字句の脱字がいくつか見られた:表示上の理由か?

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)

[7] 「江辺歌謡祭」の裏話
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私は一人でソロとして、<4>はグループとして、江辺歌謡祭に参加した。

私は(ソ)ロの決選にのぼったが、<4>は予選で脱落した。私は、学校の名誉のために決選で「イ・ソンヒ」の代わりに<4>というチーム名の中に私の名前を埋めてほしいという、先輩の提案を受け入れた。決選で、サークルの先輩イム・ソンギュンさんが、その他伴奏と和音を合わせてくれた。

純粋な気持ちで、私が属した音楽サークルを助力しようとしたことなのに、後日あたかも私が<4>の知名度にタダ乗り(無賃乗車)したように知られたのは、今考えてもとんでもないことだ。

私は、84年の「江辺歌謡祭」もまたTVに中継がないと思っていた。例年は、確かにFMラジオでだけ放送されたのを記憶していたから。さらに、生放送で中継されるのをあらかじめ知ったならば、私は多分参加願書も出さなかっただろう。大学入学後にも、私が勉強よりは歌に陥っている姿を父は極めて不満だった。内心、頑固な父を説得できる「締切期日」を、その年の秋ぐらいに捉えていたので、私はまず父に「バレ」ないことが急務であった。

「江辺歌謡祭」の1、2次予選はソウルで執り行なったが、最終予選と決選は南怡島で寝泊りしながら進行した。「これは困った。家に何か言い訳して抜け出すか。数日だが・・・」

結局、私はちょっと無理をしなければならなかった。ムシムシする7月の蒸し暑さの中で、私は往復5時間の距離の、家と南怡島の間を三日間毎日行き来したのだ。

待望の「江辺歌謡祭」決選の前日、私は「変装」した。ひょっとして父や知り合いがTVを見ても、私が誰なのかを見間違えるようにしようと。まず、頭をチリチリにパーマしたし、メガネも視力が似た友人のものと替えて使ったその上、行事当日の演出者シン・スンホ先生の強要(?)で、着ていたジーンズをスカートに着替えたので、それなりにほとんど完ぺきな変装をしたわけだ

その時借りてはいたスカートの持ち主は春川から来たオ・ヘウォンという女子中学生だった余裕がなくて返すことができなかったが、今も家に保管している。この記事を読むことになれば、その時の私のジーンズとヘ・ウォンさんのスカートを交換をする心の準備はないのだろうか・・・。

「江辺歌謡祭」TV生放送時間のカウントダウンが始まった時、私は瞬間的に現場から逃げるところだった父が近づいて来たのだ叔父と叔母も一緒に

叔母はMBC FMを通じて江辺歌謡祭の案内放送で私の名前を確認し、直ちに父に連絡して私を「捕らえに」「出動」したのだった。

私を一時見おろした父の口から想像もできない言葉が流れて出た「せっかくこのようになったこと、必ず1等になりなさい、学生時代の良い思い出を作ると思って・・・

夢にも見られなかった「応援団」が現れたのだ。あらためて決意を固めて舞台に上がった。観客席の中の父と目を合わせて呼吸を整えた。

それなりに最善を尽くしてを歌ったが、「大賞」を授かるなんて想像さえしなかった。

私が心の中で「1等」と目をつけたチームは、「アダダ」という歌を歌ったあるデュエットだった。彼らがどの順位にも入ることが出来なかった事実は、今も理解することができない。

(「Jへ」)で、大賞を獲得した後、私はあらゆる流言に苦しめられなければならなかった。いったい「J」が誰なのかということだった。ある新聞か雑誌は、「J」の仮想図をカラフルに載せたりもした。長身に俊秀な容貌だが、洋服の上着に韓服のズボンを好んで着る変わり者の文学青年とか、実名は「ノ・ソクヒョン」なのに「ノ・ソクチン」というペンネームを使うとか、「J」というイ・ソンヒの祥明女子高時代の片想いとか・・・。

    (注)歌「Jへ」に登場する「J」については、作者のイ・セゴンの言葉から知ることができる。

あまりにも問い質すので、ある席だったか「J」という私の甥(姪)の「ジェヒ」を意味すると話してしまった。その声を聞けなかったある記者は、「ジェヒ」が誰かとまた何度も尋ねた。「ジェヒはわが家の子犬の名前です」

冗談で発した返事だったが、いやはてさて、その記者はその話をそのまま記事にしてしまった。「『J』は、イ・ソンヒが飼っている犬の名前だ」と。

誓って、特定の「J」は、この世界にいない。子どもも、青少年も、また中年層さえも口ずさみながら歩いたように、「J」という、誰もが自分の胸中深く大事におさめている思い出の恋人であることもあれば、また、幼なじみであることもあるのだ。チャン(Jang、장)さん、チョ(Jo、조)さん、チョン(Jeon、전)さん、チュ( Ju、주)さんなどが、自分を忘れられないという歌詞を聞いて、非常にうれしがるという話も聞いた。

(「Jへ」)は、私としては信じられないほど大ヒットをした。1985年1月には、放送回数95回で、最も放送された曲になるほどだった。その時、2位はナミ(나미)氏の「クルクル(빙글빙글)」、3位はイ・ウンハ(이은하)氏の「恋もしたことない人は(사랑도 못해본 사람은)」であったと記憶する。

(「Jへ」)の人気は、MBCとKBS両放送局の間の見えなかった「壁」を崩したという話も聞いた。その前までは、MBCの歌謡祭の出身歌手がKBSに出演するということはほとんど想像も出来ないことだったので、私は今でもその時「糸口」をつけたのをこころよく思っている。

さらに、その年12月30日には、KBS「放送歌謡大賞」の新人賞まで受賞した。MBC側で、それとなく期待を抱いていたが、ライバルの放送会社から賞まで与えるとは・・・私もうれしかったが、MBCのシン・スンホ先生は私よりもっと喜ばれた。「ソンヒ(ソニ)よ、きみ、堰の水を切ったね」

MBCでは、その翌日(12月31日)、私は10代歌手に選ばれたし、新人賞に加え最高人気歌手賞まで上乗せてくれた。 3冠王・・・江辺歌謡祭(7/29)以後、ぴったり五月ぶりにあげた収穫だった。

TVをつけたりラジオをつけるたびに響き渡る私の歌に父は慌てた。仕事がそんなに大きくなるとは(?) そこまで予想できなかったのだ。「おまえ、それは趣味でやったことではなかったのかい?」

しばらく歌って彷徨(?)していれば、再び勉強するだろうだと信じた父は、日ごとに職業歌手になっていく私の姿に、ある危機感を感じたようだ。

芸能人に対してはいつも否定的な見解を持っている父との「暗闘」は、かなり長い間持続した。しかしながら、「子どもに勝つ親がいるだろうか」。結局、父は条件付きで、私の歌手活動を許諾した。

「醜聞を起こして、マスコミの噂にのぼる歌手にはならないこと。外ではお前がスターかも知らないけれど、家に帰れば私の子どもであり、私にとってまだ子どもでしかないことを肝に銘じること。 少しでも様子がおかしいなら、再び歌を歌えないようにするぞ。」 おおまかにそのような言葉だった。

今は、TV画面に映った私の姿と歌をモニターしてくれるほど私の生活を理解している父に、私はなかなか歌謡界の暗い面を話せない。私自身に関しては、常に恥じることがない生活をしてきたので、父の前でいつも堂々ととしていることができる。

私に対する周りの評価はどうだか分からないし、また別に耳をかたむけたい気もないが、私の両親に関する「悪評流言」(デマ)は断じて説明しておかなくちゃいけない。

父は僧侶であるから、言うまでもなく母もまた僧侶を夫としているので、勤倹節約する生活が体質化した人たちである。

したがって、娘ひとりの(おかげ)で贅沢な暮らしをしながら、貴族生活をしているという噂は、話にもならないことだ。歌手が歌数曲ヒットさせると、まず「夜の舞台」(マイナーイメージの舞台)を流れることがわたしたちの現実だが、両親は酒場で歌を歌うことだけは口を極めて止める。最も簡単に大金を握ることができる所なので色々な誘惑も多いが、私自身「夜の仕事」に出て行くことはいやだ。デビュー当初、何も分からない状態で「先輩歌手もみな出て行くので・・・」という考えで、いくつかの営業場所を転々としていた事実を今でも恥ずかしく思っている。

父は、私のために気苦労をたくさんした娘の有名税を元手に宗団の要職に座ろうという誤解が嫌で、何と2年も寺院を離れていたりもした

母は今でも、市場の床に散らばっているハクサイのくずやカブなどを拾ってくる。節約が習慣になったのだ。周りではこのような母を巡って、井戸端会議がはなはだしい。「外車に運転手まで置いて通う娘、恥ずかしくもないのか。どういうショーだ。貧乏たらしい様をあらわにしているね。ケチん坊。」 後生だから、「スター・ママ」と色眼鏡で見ないで、家庭を築いていく「主婦」としての私たちの母にきれいな視線を送ってくれるのをお願いする。

私は、(「Jへ」)を歌った時から、歌唱力はいい歌手という評価を受けてきた。私も認める私の歌の実力は、1984年11月、チョ・ヨンナム(조영남)氏が進めていた(KBSの)「ナイト・ショー」に招待されて、その場で初めて接したノ・サヨン氏の「あなたの影(님 그림자)」を歌った時、そしてMBCの「ショー2000」に出て行って「キャンパス ベスト10」の曲をひきつづき歌った時、完全に「公認」された。

前回、うっかり忘れて落とした話がある。江辺歌謡祭の決選で、<4>のメンバーでを共に歌ったイム・ソンギュンさんとの関係についてのことだ。

江辺歌謡祭で大賞を受賞した後約3ケ月の間は、イム・ソンギュンさんとデュエットで活動した。デュエットという性格上、私は彼に付いて歩く時が多かったし、周囲では私たちの二人の間を恋人関係まで歪曲したりした。

私はそのような視線が負担だったし、また江辺歌謡祭に当初ソロで参加したように、再び一人で歌いたい欲が出た。それで、私が先に決別を宣言したいきがかりで、ソロアルバムを出すことになったのだ。「<4>の名前を借りて優勝しておいて、なぜお前一人だけスターの振舞いをするのか」という当時の一部難詰に対しては、「歌に対する欲念」のためだったと答えれば十分説明できるだろう。

なおかつ、<4>のメンバーや学校の中では、私のソロ活動に何の反感もなかった。おだてたり、けなしたりして愚弄した人たちは、私たちのグループや私とは何ら関連ない人物たちだけだった。

(「Jへ」)で、1等を「食べた」(受賞した)直後、私は地球レコード社と専属契約を結んだ。その時、契約金の名目で受けた金があれこれ差し引けば、5百万ウォン。生まれて初めてつかんでみた「大金」だった。その金は、全額父の白内障治療費に使われた。これまで、「芸能人」になろうと決意した娘のためにかなりひそひそ言われた父に、少しでも報いたというやりがいを感じる一方、何か相殺されたような妙な快感(?)も味わったことを告白する。
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2013年12月19日木曜日
(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「8.夜の舞台時代の警備員の話」

先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第8回目をここに載せたい。感謝。
イ・ソンヒが、デビュー初期の待遇や環境の変化への戸惑いと驚き、いわゆる夜営業(ステージのある店)に出演する際に直面したそして軋轢をガードした警備員の存在などを知ることができた。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)

[8] 夜の舞台時代の警備員の話
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1985年2月、私は初めて第一アルバムを世の中に出した。1集に収録されたすべての曲は、全てソン・ジュホ氏が作曲した歌だ。高校時代、チャン・ウクチョ音楽室での出会いが縁だった。

<少女の祈り(소녀와 기도)>と<女心(여심)>をそれぞれ(レコード)裏表面のタイトル曲として載せた1集アルバムはあきれるほどとても売れた。ソウルでは「あ! 昔よ(아! 옛날이여)」と「葛藤(갈등)」が人気であり、地方では「また咲く愛のために(다시 필 사랑위해)」、「光の子ら(빛의 자손들)」、「愛の約束(사랑의 약속)」、「少女の祈り(소녀의 기도)」などが強い勢いを見せた。(レコード)盤一つで、何と六曲もヒットしたのだ。ファンは、レコードの入手が難しいと不平を言うほどであった。

ただ一つ、今でも予測するのが難しいのは、特定の歌に対するファンの反応だ。作曲家や歌手が(レコードの)A、B面の頭の曲なら明らかに最も自信がある歌であるのに間違いないはずなのに、ファンはほとんど期待もしなかった歌をもっと好きだったりする。6集アルバム中の「思い出のページをめくれば(추억의 책장을 넘기면)」もやはりタイトル曲ではないのだから。

とにかく、1集の大ヒットは、私を「マイカー族」の隊列に立たせた。今でも忘れることはできない、私の一番の車、(現代製の)白色のポニー2。

私は、レコードがよく売れて、自家用車を運転する厳然とした歌手だった。歌が下手な歌手は、もう歌手ではない。私はデビュー直後から、そうそうたる先輩歌手を追いかけて行くのではなく、「正面対決」を繰り広げて、私の道を歩んできたと思う。

歌唱力を評価する基準は、他の人の歌をどれくらい上手く歌うかにかかっていると私は信じる

私は、デビュー当初や今も、放送に出演して他の歌手の曲をたくさん歌う方だ。私の歌があまり多くなかった新人時代には、70年代のフォークソングと先輩歌手の歌をたくさん歌った。チョー・ヨンピル、キム・スヒ、ユン・シネ、キム・ヨンジャさんなど当時最高歌手と舞台に一緒に立って、内心競争的に相手の方の歌を熱唱したその時の経験が、今日の私に多いに役に立ったと思う。

私も自分の声が高いと感じている。キー(Key)がハイ(high)なため、私は歌わねばならない相手歌手の歌が低音を中心にしている場合には、ちょっと苦労しなければならなかった。寝る間を惜しんで、歌詞を諳んじて、私の声をその歌手の声に合わせて・・・

先に話したように、デビュー初め、私はしばらく夜営業の所(キャバレー・酒場など)に出演した時期があった。ところで、行く所ごとに、どこでどのように聞いてきたのか、青少年のファンたちまで未成年者の立入禁止場所である酒場の中に入ってこようと出入口前でもめごとをしたりした。また、客は、客なのに「いくら芸能人でも『ちっちゃな』学生がこのように出てはいけないよ」と、隙さえあれば意見しようとした。

「いや、私も法的には完全な成人なのに、なんでこのように・・・」 しかし、何となく「突っ張って」自然に夜営業の所には往来を控えるようになった。

(この)夜営業の出演と関連して、ほとんど伝説的な話で、チェ・ヒジュン先輩が酔客から白のスーツに酒とおつまみの洗礼を受けた時、気まずくなった雰囲気を淡々として余有ある態度で、それ以上悪化させなかったという話がある。

反面、ある女性歌手は、意地悪な客にあらゆる悪口を浴びせまくることによって、禍を自ら招いたという話も聞いた。

私は、幸い酒に酔った客に辱めに会ったことが一度もなかった。恐らく、放送などを通して映った幼いイメージのおかげでないかと思う。その上、私は舞台の上に釘付けされたように、本来の場所で歌を歌うスタイルでない。客席と客席の間、テーブルとテーブルの間の通路をうんと歩き回る方だった。できるだけ多くの人々と握手もしながら・・・

荒いことで有名な永登浦地域の夜営業で2ヶ月間歌を歌う時、私はウェイターから感謝の言葉をしばしば聞いた。普段あまり目立たないが、円形舞台の周囲にはウェイターの「きらりと光る」視線がある。舞台上の芸能人が、警備員の役割まで兼ねているのだ。

ところが、私が出演してからは、荒い客よりネクタイ姿の会社員が多くなって仕事をするのがはるかに楽というのだった。あたかも「剣道館」や(学級委員の中から選ばれる)「善導部長」になったように、得意になった瞬間だった。

そのようなある日、舞台下に降りて握手するのを楽しむどころか、絶対に夜営業には途絶する事件が起きた。

ある夜の舞台だったか、「あ、昔よ」を歌っている時だった。

その日に限って、客席には荒っぽい男が多かった。突然どこかで何かが壊れる音が聞こえたのに続き、舞台の下が騒がしかった。 私を「警備」していた方々と、頭を剃ってズボンの胴には刃物までさげた、ある輩と喧嘩が起こったのだ。

事件の発端はこうだ。

歌手が舞台上で歌っていたら、握手するつもりで舞台の真ん前に出てくる客がいる。数ある中には、握手すると歌手を舞台の下に引っ張るやっかいな人もいる。それで、舞台周りには客を「装った」歌手のマネジャーや警備員が常に緊張の中で待機している場合が多い。

その日も、舞台上にぴたっと寄り添い座って「万が一の事態」に備えていた私の警備員(私が属したプロダクションの職員)を、その不良たちが、熱心な「イ・ソンヒ ファン」と誤認して、不正をはたらいたのだ。私に会わせてくれといって.。

歌っている私に向かって、彼らは「ソンヒよ、後で・・・」、何とかしてと、とても近い仲であるかのようにほらを吹いたし、これに対していきり立った私の「保護者」たちと言い争いを繰り広げることになったのだ。

今日、突然に「警備員」という言葉が登場するようになったのは、記憶も生々しい85年3月20日の脅迫事件がその根元になっている。

当時、私は一日平均7百~8百通ずつ押し寄せるファンレターで、集配人のおじさんの顔色をうかがわなければならない程大変な苦労をしていた。今でも一日に4百通余りの手紙を受けているが、返事はほとんどできない。デビュー初めから今まで、着実に便り伝える方々だけでも1千人近くなる。顔は分からないが名前と字体だけ見てもうれしい方々だ。

話が横道にそれたが、とにかくその頃30代初めぐらいに見える険しい若者3人が訪ねてきた。熱狂ファンなのを自任しながら。

なんだかんだとつまらぬことの末に、結論は「おれたちの店にも出演しないで、他の夜舞台をあちこち出ては『面白く』ないことと思え」と言うのだった。

実際には、一箇所と2ヶ月出演契約を結んだら、1年契約したのと変わらない。放送出演とか練習とかで言って見ると、出演キャンセルすることが多く、約束は約束だから2ヶ月間60回の舞台に立つという契約を守ろうとするなら、およそ1年ほどかかるからだ。

私を連れて行こうとしていた店は、いつのまにか「お連れ」参りし始めたし、当時では破格的な1ヶ月に7百万ウォンという最高水準の待遇を提示する所もあった。

怖いし、また昼間と夜を変えて生きるということに体質的に拒否感もあって、ずっと断ったところ「鼻っぱしらを高くふるまうな。二度と歌を歌えないようにする」という威嚇を受けたりもした。

だが、「お茶を一杯一緒に飲む機会をくれ。そうでなければ拉致する」と見えすいた脅しをする子どもっぽい少年の電話声には「ふざけているのね」といいながら、たいしたことないと思ったりもした。

しかし、私は彼らの顔が分からないが、私の一挙手一投足は完全に公開されたも同然だったので、結局、私の乗用車には警備員2人が同乗することになったのだ。
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2014年1月2日木曜日

(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「9.忙しい活動の中の毎日」

先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第9回目をここに載せたい。感謝。

イ・ソンヒが、マネジャーとの出会い、忙しい新人時代の様子、そして健康管理などを知ることができた。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)


[9] 忙しい活動の中の毎日
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初めてのアルバムが想像以上に大ヒットをした後、私は新しいマネジャーのユン・ヒジュン先生*と手を取り合って2集の準備に入った

    (*) ユン・ヒジュン先生:イ・ソンヒの人生に大きく関係することになる。
          1991年の27歳当時の手記であるため、後の1998、1999年の出来事を知るべくもない。

ユン先生は、まずナイトスポットの出演を厳禁した。そうしたところに出て行って、煙たいタバコの煙とホコリの中で歌ってみても良いことは一つもないといって、放送出演以外の時間はみな練習に費やせと忠告した。また、ギターリスト出身の専門の音楽家らしく各種の名曲を聞かせながら、先生の言葉通りに「基礎から再び」教えた。

私はその時、音楽理論もたくさん学んだ。さらに国楽まで学びに通うほどであった。

だが、私の周辺の状況は、のんびりと(?)音楽の勉強でもするように日中放っておくだけではなかった。スケジュールがハードな日は、一日に何と八ヶ所の舞台に上がったりもした。

特に、両方の放送局の特集番組が一度に集まる年末年始には、言葉通り「あわてて(目をつり上げて)」MBCからKBSに、KBSからMBCに飛び回らなければならなかった。私は化粧もしなくて舞台衣装もズボンにジャケットを掛ける式で、気軽な方なので、それなりにちょっと落ち着いたりしたが・・・

それでも、ソウルでの放送出演は、地方に比べれば「両班」(気楽)だ。済州道と釜山などで、まるで隣家に飲みに行くように足しげく上がり下りして見たら、苦労は並大抵ではなかった。その上、今も飛行機酔いのある私は、主に自動車を愛用する。公演開始時間に合わせて見ると、食堂を訪ねて食事を済ませる余裕は最初から考えもできない。やむを得ず、車中でカップラーメンの切れ端で食事を間に合わせたりするけれど、その姿を見たある雑誌社記者は「イ・ソンヒが好む食べ物はカップラーメンだ」と書いたりした。

その記事のおかげで、我が家にしばらくの間、ファンが送ったラーメンが「どこにでも」あるほどあふれた。

目が廻るほど忙しい「行軍」を2年ほどしたので、そうでなくても虚弱な私の体は耐えることができなかった。結局、10日間病院の世話にならなければならなかった。退院後は、無理な出演依頼をできるだけ断る方だが、それでも定期的に「バタバタ」倒れるのは昔も今もあまり変わらない。

「健康に留意」という水準を越えて、「体力を鍛練」する必要がある私は、規則的な生活を最優先にする

たいてい歌手たちは、「ふくろうの生活」(夜間の仕事?)をする場合が大部分なので、何かわきまえず朝に電話しては「朝っぱらから何の大騒ぎだと」 「けんつく」されるのが常だ。甘い睡眠を邪魔されたくなくて、とても親しくなければ互いの電話番号も正しく教えないようにしている。

反対に、私は夜の仕事をしないので、歌手としては比較的早く寝る。私がしばらくの間、熟睡している夜明け(深夜)の1時頃にかかってくる電話は、私をとても苛立たせる。たいてい、私に電話する人は、その遅い時間まで外国歌手の公演ビデオや新曲を聞いて、音楽の話をしようとかけてきたことを分かってはいるけれど、いな、真っ暗ならば寝なければならないのではないか。

寝るとき寝て、仕事をするとき仕事をする規則的な生活以外にも、私は特に喉とお腹に神経を多く使う

歌手にとって、生命とも同じものが正に声なので、私は一日も欠かすことなく寝床につく前に、食塩水でガラガラしながら声帯「清掃」をする。たとえ一日に一度であっても、それがどれくらい面倒なことかは、しない人は分からないことだ。体質上、生卵はちょっと吐き気を催して、それでも一日中、口の中でトローチなどをモグモグすることは嫌いで・・・それで開発した方法が、毎晩「塩味補気」(塩辛いものを飲むこと?)である。

また、朝6時なら、寝床から起きて家の近所のヘルスクラブに走って行く。その位置は、明け方に運動する方々に、どちらであるか明らかにできない点、理解して欲しい。

ヘルスクラブで最も汗をたくさん流すステップは、「腹筋運動」コースだ。それもそのはずなのが、お腹の中で鳴って出てくる声と、喉だけ使って出す音声(国楽では「黄色喉(노랑목)」といったか)とは声自体が違うものであるから。運動のおかげなのか、今でも158cm、46kgの体を無理なく維持している。平素に、体力管理を怠れば、少なくとも人気歌手になることはできない。私でも、公演スケジュールが通常6ヶ月の前までは、埋まっている状態だ。公演日程に基づいて、着々進行されるのだが、体だけが何ともはやスケジュールに従って痛むことか。

いつ寝込むかもしれなくて、用心用心するが私の体は鋼鉄ではないので、時々出演パンク(破る、펑크)を出す時がある。大慨は、痛くて出られないといえば形式的で無愛想な語り口で「健康管理、上手くしなさい」という慰めの言葉をする。だが、時々は到底抜け出せない場合もある。

去る1988年、蔚山KBSで<歌謡トップ10>を生放送したことがある。

当時、私の歌「私の町」が1位曲であったが、その日に限ってスケジュールが重なってしまった。近いといえば近い距離ではあるが、釜山でも放送に出演しなければならなかったのだ。

結局、私は釜山公演を終えるやいなや、蔚山KBSに向かって全速力で車を疾走した。今考えて物凄い途方もないスピードであり、しばらくして何か焼ける臭いがした。タイヤのフレームが、アスファルト上に転がったところで、車中いっぱい煙が立ちこんだ。窒息するようだった。マネジャーの先生が、洋服の上着で覆わなかったならば、おそらく私は窒息死まではないにせよ気絶ぐらいはしただろう。

とにかく、どうにかこうにかかろうじて蔚山スタジオに入った時は、出演歌手全員がいっぺんに歌う準備をしていた。その瞬間、あたふたと駆け付ける私の姿を見たMCが、「たった今、イ・ソンヒちゃんが到着しました」と叫ぶと、私は「私の町」を息つまるように歌った。後ほど聞いてみると、2秒だけ遅れても、私は舞台に上がることができなかったという。その日私は、どんな悪条件下でも歌を歌う可能性があることを証明した。夜10時に寝て、朝6時に起きること。これにより、ほぼ午前中に進行される放送録画の時、一部歌手のように喉がかれることがないだろう。歌手志望生に聞かせたい言葉だ。
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2014年1月15日水曜日
(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「10.それが歌なの 発声練習では」
先日(2013/9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第10回目をここに載せたい。感謝。

イ・ソンヒの、ヒットの数々とトラブル、慈善活動、海外とのかかわり(マイケル・ジャクソン、レスリー・チャン)、ファンクラブ誌(ニンジン)などを知ることができた。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)
[10] それが歌なの 発声練習では
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・1985年11月、私の2集アルバムが出た。タイトル曲は「秋の風」。

・ところで、この歌が盛んに電波に乗っている頃、盗作の是非にまきこまれて、すぐさま放送停止にあってしまった。公演倫理委員会が立てた理由は、キム・ヨンジャさんが1983年発表した「愛の迷路」中の「あぁ、私たちの愛のロウソクの灯り/消えて道に迷ったね」の部分をそのまま盗作したというのだ。私が作曲した歌でなく、何か抗弁する立場ではなかったが、ちょっとくやしかった。メロディが全く同じならばともかく.・・・結局、私は「秋の風」を再録音しなければならなかった。それでも若干惜しくなかったのは、「ケンチャナ(大丈夫)」が「秋の風」に劣らずヒットしたという事実だ。慰めはなった。

・3集の「分かりたいです」を準備しながら、私は最初のリサイタルを持った。それが1986年7月26日、 収益金は全額「恵まれない学生家長*助け合い」募金に出した。奨学金形式で渡されたお金の中には、新光女子中と祥明女子高の後輩に与えられたのもある。最初の数回は、学校に直接訪ねて行って、奨学金を学校に寄託したが、そのたびに校長先生が学生たちに紹介してほめるお言葉がなぜか過分で照れくさくて、この頃は人伝に学校に送っている。

    (*)学生家長: 家長の役割を合わせ持つ学生 (本ブログ関連:”学生家長”)

・当時は、「学生家長」という概念さえ曖昧な時だったので、私は「有名税」を利用したいわゆる、「マスコミ・プレー」をよくした。広告費はとても高くて、また往来にポスター貼りは不法で・・・したがって、私は放送に出演するたびに、私の慈善公演日程を大々的に「広報」したりした。

・実際にチャリティー・コンサートを準備しながら、後悔(?)もたくさんある。準備期間が3ヶ月ほどかかるからだ。普通のファンは、TVに映らなければ「あの子、もう終わった」といいながら速断することが常なので、コンサート準備期間中には、かなり大きい打撃を甘受しなければならないのだ。

・とにかく、困難を訴える学生家長の手紙を知らない振りすることもできなくて、収益金を狙った(?)慈善公演を今まで40回余り行った。手に余っても、引き続き強行しようとしている。

3集では「分かりたいです」が最も多い愛を受けた(人気があった)曲だ。1987年4月の一ヶ月間、放送回数107回を記録したので、いつでもどこででも聞こえる歌だったと言える。「やはり」タイトル曲でないこの歌が大ヒットした原因は、ヤン・インジャ先生*の歌詞のためのようだ。「忙しい時、電話しても私の声うれしいんですか」などの歌詞は、女性心理を見抜いたという評を聞いて、それゆえに男性ファンからは「男に疲れさせる(重い)歌」という愚痴も聞こえてきた。

    (*)本ブログ関連:”ヤン・インジャ

時折、私に向かって「それが歌か、発声練習では」と厳しく批判する人もいる。認める。私の歌が主に高音域中心であるから

それで、6集「思い出のページをめくれば」では、トーンをかなり低く下げた。偏狭な考えかも知れないが、6集くらいで満足できなければ、私は致し方ない。世の中のすべての人を満足させる能力は私にはないので。

私はそれなりに情熱と誠意を尽くして歌う。全身に力を集中して「熱唱」する数年・・・いつのまにか私の手の平にはタコができた。私も知らない新しいマイクを握った掌中に力が入っていたようだ。

私の名前の前に「歌手」という接頭辞がつき始めて以来、私は実に多くの仕事を経験した。

日刊スポーツのゴールデン・ディスク賞5連覇*をはじめとして、歌謡と関連した賞ほぼ一度ずつは全て取ってみた。そして望んだだけファンから愛も受けている。今でもファンレターと一緒に熊のぬいぐるみなど様々なプレゼントの包が、1年なら小型トラック2台分位ずつ家に舞い込む。

    (*)ゴールデン・ディスク賞5連続受賞、1990年12月9日(イ・ソンヒ公式ホームページより

外国にも何度も出かけたし、私の歌が香港映画「野生の花」*の主題歌で歌われることもあった。 また、つぎつぎ翻案して歌った外国の歌手もかなり多くて、誰が誰なのか確かに分からないほどだ。

    (*)香港映画「野生の花」・・・未確認

あの有名なマイケル・ジャクソンも、私とともにデュエット・アルバムを吹き込もうと申し入れて来たりした。ところで問題は「踊り」だった。レコードと同時に、ミュージックビデオまで作るつもりだったジャクソンは、テープに録音された「私はいつもにあなたを」など数曲を聞いてみて極めて満足したのか、私自身の振りつけ担当まで付けてやると米国に来ないかなど、積極性を見せたが私は断った。理由は、ただ一つ。 自尊心(プライド)が傷つけられたためだ。

「時価いくらの世界的なスターでも、私に2年も踊りを習えだって? フン、素晴らしいね、このひとは。 私、そんなに暇な女ではないね」

香港の歌手、張國榮(レスリー・チャン)とも共に舞台に立ったことがある。彼のステージ・マナーは本当に良かった。かなり多くの曲を歌ったが、そのうちの二曲だけがライブであった。放送でもないコンサートなのに・・・それは香港式、いや英国式なのか?

「張國榮」といえば思い浮かぶ気が乗らない記憶一つがある。彼は若くも老いもない女性を自分の母親と紹介したが、その女性は私が張國榮と話すたびにとても気遣う様子だった。「チェッ」誰が自分の息子、なんという大儺(鬼払い)。*

    (*)世間で言われるような関係はなかったのだろうか

ところで後ほど分かってみれば、彼女がまさに張國榮の隠した「スポンサー」とか。だが確認する方法はない。

ファンが声援してくださることにはいつも感謝するが、できるならあまり興奮はしないようにされたら良いだろう。特にコンサート現場では。

1987年の冬、63ビルディングで公演を持った時、女子学生4人が気絶したことがある。病院に移す途中、靴までなくしたそのうちのある少女に私の履き物を履かせてあげて、私はスリッパ姿で帰宅したりした。弱り目にたたり目で、その日、汝矣島(ヨイド)広場ではある政党の群衆(大衆)集会があったので、そこでケガした人々に、私のコンサートで過度に興奮した少女4人まで加勢して、近所の病院は時ならぬ好況(?)を向かえ、汝矣島一帯の交通はしばらくの間麻痺したようなものだった。

熱狂ファンに自ら少しでも誠意の表示をするという気持ちで始めたのが、1年に四回ずつ直接お送りするファンクラブ誌「ニンジン」である。ファンクラブの会員数が1万5千人ほどだから、一度発送するには、それこそ私の周辺には「大騒ぎ」がある。

「ニンジン」の内容は、「イ・ソンヒは、その間何をしながら過ごしたか」が主流をなしてファンたちの各種「称賛」と「抗議」、そして「悩みの相談」も多く入っている。 懸賞クイズもある。「イ・ソンヒ姉さんが一番明るく笑う時は、歯が最大限でいくつ見えでしょうか?」
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2014年1月29日水曜日


(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「11.私の華麗な事件」

先日(2013/9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第11回目をここに載せたい。感謝。

イ・ソンヒの、音楽以外の側面での慈善活動や、詞に政治的なテーマと取り組む試行など、あるいは彼女のファン層について知ることができた。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)

[11] 私の華麗な事件
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時折、このような質問をする人がいる。「同じ歌、何度も歌ってたらウンザリしない?」

そのような問いに触れると本当にあきれる。私は、私が好む歌をその時その時の気持ちと舞台の雰囲気に合わせて歌うことがとても楽しくて、その独特の雰囲気を「満喫」しているからだ。

「花火のように(불꽃처럼)」のようなダンスミュージック風の歌も入っているが、ポップ・バラードが中心である5集アルバム(1989年)は、私が歌手デビュー後、ぴったり5年ぶりに出た。このアルバムの最高人気曲は「私の町(나의 거리)」。放送とDJ人気チャートで、2ヶ月以上頂上に留まった歌だ。

5集で格別に愛着がある曲は、「五月の陽射し」である。「5月の光州の英霊」*たちを考えて、私が歌詩を書いた。少なくとも、国民の愛(支持)を受ける歌手ならば、私たちの社会の痛みに「他人任せ」していることはできないと思った。この歌は、大学街のデモの時も「愛唱」されたし、光州のローカル放送では10週連続1位に留まったりもした。だが、一つ物足りなさは残る。私が直接行ってみた光州を素材で映像ビデオを製作しようとしたが、色々な理由で失敗に終わってしまった苦々しい記憶のためだ。**

    (*)5月の光州の英霊: 1980年5月の光州事件参照
    (**)イ・ソンヒは、善意から政治に関わった経緯があるが振幅もあって、現在は遠ざかっているようだ。

1989年6月には、香港3MGレコード社で「これがオリジナルソングだ」*というディスクが出た。ホイットニー・.ヒューストンなどそうそうたる歌手10人が、自身のヒット曲を収録したアルバムだ。アジアでは私が「代表選手」に選ばれたけれど、チョー・ヨンピル先輩が抜けたという事実が、当時にはちょっと面食らってしまった。

    (*)「これがオリジナルソングだ」: 企画アルバムのようだが詳細不明(ジャケット写真:感謝)

しばしば、イ・ソンヒのファンは少女層が大部分であると知られているが、それは事実と違う。1990年7月のある世論調査結果を見ると、男子大学生の24%、女子大生の15%が私を「最も好きな歌手」と挙げたのだ。その調査で、男性歌手ではチョン・テチュン氏が1位であり、私は女性歌手の中で人気1位だった。

(人気)数字だけ次々並べて見ると、ちょっと目まぐるしい気がする。とにかく、私のレコードは男性がたくさん探して、カセットは女性ファンがたくさん買ったそうだ。職場の趣味サークルの内では、男性中心の同好者の集いで私をよく招待する方だ。

昨年の春(1990年4月)、ミュージカルに出演したことがある。世宗文化会館で幕を上げた「オズの魔法使い」の主人公「ドロシー」役だった。ドロシー役は、米国ではダイアナ・ロスが引き受けたとか。とても手に余る舞台であった。

スカートを着て靴をはいたまま、幕間ごとに明かりの消えた舞台裏を飛び回ったら、台詞をいうたびに息があがってフウフウしなければならなかった。また、緊張の連続だったので、体と心が別々に動いた感がなくはない。気球に乗って帰宅する最後の場面では、靴のかかとに装着された豆電球に点灯しなくて慌てたりもした。確かにかかとをぶつければ明かりが「パッ」と入ってくることになっていたが・・・分かってみれば、あちらこちら暴れる(?) 間に、つながれた電線が切れてしまったのだ。

何も知らずに飛びまわったミュージカルを通じて、私は多くのことを悟った。中学2年生だった末っ子の弟(妹?)*が生まれて初めて私の姿を見に公演会場にきて、また非常に不思議に思った。漫画の映画やビデオでは味わうことが出来なかった夢と希望を感じたと言った。「ずっと大きな」子がそうなのだから、まして子供たちが・・・

    (*)イ・ソンヒは長女で、弟とさらに2人のきょうだい(男?女?)がいる。

公演練習のために、放送出演など私の「生業」が支障をきたすことになって、公演後遺症で病んで横になることが心配だけれども、私は今春にもミュージカル「ピーター・パン」に出演する。ズボンではないが、草色のタイツを着た万年少年のピーター・パンの役に。

体が「パキムチ(葱キムチ)」*になれば、いいのだが。私には、万病に効く、薬のような参鶏湯(サムゲタン)一杯あれば軽く「元気回復」するのを・・・

    (*)葱キムチ: 疲労回復に効能があると、ネット上に記述ある。

ミュージカルにすっぽりはまってみると欲が出る。子どもと青少年に夢と希望をあたえる専用の文化空間をたてたいのだ。それで、今でも日本や米国など外国の資料をこまめに集めている。合わせて、誰かが「コンチュイ・パッチュイ」*など、私たちの話をミュージカルで脚色してくださるように祈る。

    (*)忘れ形見の娘コンチュイが継母とその娘パッチュイにいじめられるが幸せをつかむ。(シンデレラと似る)

また、学生家長と進学できない不遇な青少年のための奨学財団の設立も着々進行中だ。隠れてしようとしたことなのに、つい言論(マスコミ)に「見つけられて」'しまった。全国から多くの方々が寄付を送ってくださるが、ほとんど送り返している。例外は、ぴったり二件、①同じことなら障害者も助けようと直接お金を持って訪ねてこられたある障害者の寄付と、②自身も豊かではないスーパーマーケット女性従業員が寄託された「大金」の百万ウォンは、お二方の勢いがあまりにも「みなぎ」って、どうにもならなく「受付」してしまったのだ。

昨年秋(1990年10月)には、カナダのモントリオール室内管弦楽団と共演した。あの「敷居の高い」世宗文化会館大講堂で。その楽団が著名な外国クラシックオーケストラではなかったとしたら、私一人で世宗文化会館の舞台に立つということが可能だったのだろうか? ほろ苦い。また、私が望んだことは、外国楽団でない私たちのオーケストラであった。しかしながら、伴奏はできないというのだから、私だってどうすることができようか。

昨年の春(1990年4月)には詩集も出版して、詩朗唱会も持った。「去る者だけが愛の夢を見ることができる(떠나는 자만이 사랑을 꿈 꿀 수 있다)」という自作詩集であるが、大型書店のベストセラー詩集部門1位に上がったりした。元老詩人の趙炳華(チョ・ビョンファ、조병화)先生は「きれいな露をうける小さい野草のような詩・・・繊細で愛らしい詩語・・・」と過分な評をしくださったりもした。

だが、詩をもって、話したい言葉を全て語ることが少し難しかったので、今年の末か来年の初め頃、私の考え、私の生活を書いたエッセイ集*を出そうと思う。

    (*)エッセイ集: 未確認

昨年の初冬には、哲学者金容沃(김용옥)教授と東国大講堂で「デュエット」で歌ったことがある。曲目は「美しい江山」、金教授の招待で行われた突然この日舞台は、私の歌が主でなく、東洋哲学の講義が目的だったが、教授は「芸術はすべからく大衆と近づかなければならない」という信念で、私を講壇上に呼び出したのだった。金教授はまた、私にまるで詩のようでもあって、幽玄な哲学のようでもある歌詞を二編もくださった。
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2014年2月3日月曜日

(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「12.統一のための触媒になりたい」

先日(2013/9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その最終回である第12回目をここに載せたい。感謝。

イ・ソンヒのファッションの特徴であるズボン着用の理由、結婚について、統一公演などについて知ることができた。

これまで掲載のスター・ストーリー(第1回~12回)を、ブログ画面左にある「ブログ本文&資料」に「●資料:이선희 Profile (自伝)」として、まとめて掲載する予定。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)

[12] 統一のための触媒になりたい
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読者や視聴者が、私に対して最も気にかけられるのは「なぜズボンだけ着るのだろうか」と、「いつ嫁入りするのか」ということだ

・ズボンだけこだわる理由は、中高時代に制服のスカートだけ着ていたらズボンが着たかったし、また、大学へ行って洋服にネクタイ姿に変えてみると、そんなに楽なことではなかったためだ。また、スカートは女性だけ着るものなので、化粧もしなければならないようだし、随所に装いもたくさんすべきなようで、ちっとやそっとのことで着ないことに決めたのだ。スカートよりはズボンが「自己防衛」にも良いようだったし。

デビュー当初、「結婚はいつ頃になるか」という問いには、いつも「三十歳前です」と答えた。当時には、はるかに遠い未来の年齢だと感じた「30才」が、もうそろそろ目に見え始める。だが、私たちの年齢(数え年)で三十前まで結婚できないようだ。

・今年と来年には、「公人」としてすべきことが山のように前を遮っており、また、29才になれば大人がダブー視される、いわゆる「九数(九がつく年齢、人生の節目)」にひっかかることになるので、どうやらこうやら三十には皆さんに麺をもてなすこと(結婚式を挙げること)ができそうだ。

・私は、ある種責任意識を持っている。私を大切にしてくださった全ての方に、企業が利益を社会に還元するように、何かをお返ししなければならないという信念を持っていることだ。

「私たちの願いは統一」のように、私は必ず北韓公演を成功させてみる。過去の東西ドイツの例を見ても、大衆文化交流は明らかに統一のための触媒として作用できると信じる。

・「つつじの花、菜の花ひとかかえ、胸に抱いてみればいつも夢見るよ。・・・一つになった愛で、自由と平和を思いっきり享受して生きる(懐かしい)その夢を・・・」、6集(1990年)に入っている「懐かしい国(그리운 나라)」*の一部である。

    (*)本ブログ関連;”「懐かしい国」

・つつじが春の園を刺繍する北方の地から、菜の花満開な南端の済州道まで、わだかまりなしに行き来することができるその日を描いて、私は公演のたびごとに必ず「懐かしい国」と「美しい江山」を切実な心境で歌っている。

・来る5月頃には、すでに作られ、統一を念願する多くの人々の口から口へ歌われている「愛の世界」(イ・コンサン作詞、キム・ジョンイル作曲)という歌を収めたレコードも出す予定だ。この歌はソ連のルドゥミルラ・ナムイの来韓公演でも歌われたし、テナー(歌手)のパク・インス教授も愛唱する曲だ。

・また「愛の世界」は、北韓にも知られているようだ。歌詞中の「開けよう・・・開け・・・」という小節を巡って、北側では「開け」を「開こう」に直そうと要求するという声も延辺自治区のある僑胞(海外在住韓国人)から聞いた。

・北韓公演は、来る9月の韓民族体育大会とほぼ同時に可能だと耳打ちして下さった関係者もおられる。公演関連の詳細は、私のマネジメントを担当している、ヘグァン企画で緻密に推進中だ。

・これまで、私が経験した27年を記録した貴重な紙面を快諾された日刊スポーツに心より感謝し、今後もこの新聞の芸能面を通じて、読者の皆さんになんどもお会いするのを希望する。
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(付記)
上記自伝(掲載1991年)の最後に語られたように同年9月に、イ・ソンヒの平壌公演は実現したのだろうかよく知らない。

現代峨山の報道資料(2003年9月25日)によれば、2003年10月6日に、平壌にある柳京鄭周永体育館(류경정주영체육관、12,500人)で開催される、南側の公演に歌手のイ・ソンヒ、ソル・ウンド、チョ・ヨンナム、声楽家のキム・ドンギュ、新世代グループの神話、ベイビー・ボックスの出演が予定される・・・。
彼女の公式ホームページに、この公演の記録は掲載されていない。(Youtubeに映像はあるが・・・)

ちなみに、チョー・ヨンピルは、2005年に同場所で単独コンサートを行っている。