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2018年2月13日火曜日

(雑談)あとがき

書店であれ図書館であれ、念願の書籍を見つけて一安心すると、無意識なほどにしてしまうことがある。手にするや、「あとがき」にすぐ目を通すことだ。何となく、全体像をおさえておきたいと、ついやってしまう。

以前ネットで、「エセーニン詩集」(内村剛介訳、1968年)を手にしたときもそうだった。巻末にある内村氏の「あとがき」を開いた。するとこんな書き出しで始まった。
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この「あとがき」はおそらく「目次」のつぎにすぐに読まれることになるだろう。つまりエセーニンの詩そのものがまず目に触れるのではなくて、「目次」「あとがき」が眺められたのちにはじめてテキストが読まれるというのが、現代日本の読者のおおかたの接し方であろうと思うのである。”ダイジェスト”文化が病巣をそこまで張ってしまったのかといまさら歎いてみてもはじまらない。ダイジェストなしには、----”噛んで含めること”なしにはーーーーどうしょうもないほど、わがくにの読者の前歯は退化してしまっているらしいのだから。
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(本ブログ関連:”内村剛介”)

この「あとがき」に、わたしは前歯をへし折られた感がした。ずいぶん昔から、日本の読者状況は見透かされていたものだ。今も変わらないだろう。

更に今、テキストに入る前、だれもが目を通すものが新たに加わったとすれば、例えば、Amazonの「カスタマーレビュー」かもしれない。ときたま閲覧することがある。ただし、求める気のない、けれど世間で騒がせているような書籍の場合だけだが。これも、一種の <ダイジェスト文化の病巣> かもしれない。しかも、かなり毒性が強い。