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2017年2月28日火曜日

(再)「人イヌにあう」から

以前、本ブログ(2014年10月3日金曜日)に、動物行動学者のコンラート・ローレンツ(Konrad Lorenz、1903年~1989年)の著書「人イヌにあう」(小原秀雄訳、至誠堂選書)から面白い記述を抜書きしたことがある。

飼いイヌ同士が吠えあう(行動する)とき、居るべき場所(明確な!テリトリー内)を前提にしているという例で、次のように紹介している。そして、この話とそっくりなYoutube映像と出あったので、ローレンツの記述と一緒に載せさせていただく。

(再掲:コンラート・ローレンツ著「人イヌにあう」より、元文に適宜段落付けした)
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・~私の年老いたブリイとその不倶戴天の敵、白いスピッツにかんするものである。このスピッツは緑に塗った木のかき根で仕切られ、村の通りにそって長くのびた幅の狭い庭のある家に住んでいた。この三十ヤードにわたるかき根にそって、二匹の英雄は、走って行ったりきたりしては激しく吠え、かき根の両端の折り返し点でちょっと止まっては、役にもたたない怒りのあらゆる動作と声をおたがいに投げつけるのであった。

・ある日やっかいな事態がもち上がった。かき根は修理中で、一部がそのためはずされたのだ。下手の半分がなくなっていた。さて、ブリイと私は家を出て丘を下り、川に向かった。スピッツはもちろん私たちに気づいて、庭でいちばん高い一角で、うなり、興奮のあまりふるえながら待ちかまえていた。最初に、おきまりの不動の姿勢でののしりあいがはじまった。それから二匹のイヌはそれぞれがかき根の両端で、前方に向かっていつもの早駆けをはじめた。

・ところがなんと、珍事勃発。彼らはかき根が取り払われている場所を駆け抜けてしまい、さらにののしり合戦が行なわれはずの庭の下手のはずれまできて、やっとおのれの失態に気づくしまつであった。彼らは毛を逆立て、恐ろしげにきばをむき出して、そこに立ち止まった---が、かき根はなかった。たちまち吠え声はやんだ。

・そこで、彼らはどうしただろうか? あたかも一心同体のごとく、彼らはくるりと向きを変え、横腹を接してまだ残っているかき根のところへとんでいった。そこで彼らは、まるで何ごとも起こらなかったかのように、ののしりを再会したのである。
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(Youtubeに登録のMarcus V. Jacobに感謝)

映画「ポエトリー アグネスの詩」

今日で2月が終わる。この月は28日か29日までしかなく、しかも、29日は閏(うるう)年に限ったこと。通常、月末の30、31日を経験することなく、あっというまに終わってしまう月だ。2月に仕事を計画するとき、一般的な感覚でM/M(man/month)を想定すると大変なことになる。時間が足りないのだ。

カレンダーに区切りが定まると、その日は思いのほか速く迫ってくる。人生がその最たるものだが、凡庸な学生時代もそうだった。準備不足のまま定期試験が近づくときの、焦りと慌てふためき。カレンダーには逃げ場がない。

久し振りに、四谷にある韓国文化院で開かれた映画上映会に出かけて、「ポエトリー アグネスの詩(原題 ””)」(イ・チャンドン監督、2010年)を鑑賞した。今までDVDや上映会で見たことのあるイ・チャンドンの作品には、「ペパーミント・キャンディー」(1999年)、「シークレット・サンシャイン」(2007年)がある。(「シークレット・サンシャイン」は、お気に入りの女優、チョン・ドヨンが主演したこともあって)

「ポエトリー アグネスの詩」は、訪問介護をしながら、中学生男子の孫と二人で暮らす60代半ばの女性の物語だ。生活は苦しいが、あるとき詩作や詩会を知って、人生を豊にしたいと思う。そんな矢先、孫の連座した事件と自身がアルツハイマーであることを知る。消える記憶ともがき苦しみながら、彼女は最後に、ある少女の名を冠した詩を一つ残す。

映画の率直な感想は、「もう一度、『ペパーミント・キャンディー』を見たような気がする」だ。象徴的な場面である、川の流れはよどみなくとどまることない。過去に戻ることのできぬ人生のように、でも、こんなことも考えてしまう。市井の多くは、美しい言葉より、時間を強引に止めたり、逆回ししてでも今の平安・欲望を望む。それが耐え切れぬほど穢れたことであっても。そうやって多くの時が過ぎてきた・・・とも。・・・だから、この作品が余計にしみるのかもしれない。


(Youtubeに登録のシネマトゥデイに感謝)