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2014年10月25日土曜日

遠近法(消失点)

遠近法の絵画に、全てが集中して消える先に一体何があるのだろうか。絵画を見るままに見るといった、共通な視座があるのだろうか。もしかしたら、そのように見慣れているだけではないだろうか。時代とともに、絵画は、制作する者、所有する者、見る者それぞれにとって、入り混じったものがあるのではないだろうか。

(本ブログ関連:”遠近法”)

今の時代、映像を見慣れているので、遠近法は不思議でない。しかし、日本画に遠近法が登場したのは随分と後のことだ。なぜなのだろう・・・結局、日本画は、「日本画」という言葉とは違った存在だったのかもしれない。「西洋画」に対置して東洋画とか日本画といった配置をするのは、何かを歪めているかもしれない。

西洋画の遠近法について妄想したい。残念ながら、日本画の空間認識について何も知らないので・・・。

現実の世界を大きな升目を持つ網目を通して覗き、それと同じ升目のある画布に升目ごと転写すると、リアルな世界が再構成される。升目は一律でなく遠景が空気の厚い層に薄まり、全体像は遠近法の世界に収斂する。絵画工房の画工が気づかぬはずはない。

北方ルネッサンス絵画は、空間を緻密に埋める。隙間があってはならないのだ。間隙が存在したりすると、見える世界が崩壊するとでも思っているのだろうか、一部の隙があってはならないのだ。究極、視座をおろそかにできなくなる。
ファン・アイク(1395年頃~1441年)の「アルノルフィーニ夫妻像」は、遠近法の奥に壁に掛けられた鏡があり、そこに画家本人が描かれている。この絵画は、ファン・アイクの視覚を通したものでもあることになる。まるで、市民社会という視覚でもあるようだ。

レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年~1519年)の初期作品「受胎告知」は、聖母マリアの右手の動きとは別に、精緻に描いた作品と評価される。この絵は、遠景に尖った峰を持つ白い山腹に視線が収斂する。けれど、その消失点を意識されることはないようだ。一点に集中する視座は、特に宗教画には好ましいのかもしれない。

遠近法を合理的な視点でとらえる道具に、ピンホール・カメラを原理にした、カメラ・オブスキュラがある。誰もが一度、ピンホールでできる上下さかさまの映像を見た経験があるだろう。まるで、手に取るように現実世界がすくい取れるような錯覚をする。

フェルメール(1632年~1675年)の絵画が特にアメリカで好まれるという。フェルメールの視座は、ファン・アイクのような自意識を感じられない。見たものを印画紙に落とした、対象化した世界のように見える。カメラ・オブスキュラの世界なのだ。多分、タイム・トリップして彼の時代を覗く即物的な感触が好まれるのだろう。

そして、シネマトグラフの動く映像に市民が驚嘆した時代、印象派の画家たちは格闘していた。当時、カメラ技術の進歩で、今は忘れ去られた写真家たちが絵画と対峙する世界を写し取っていた。画家が、視座を画家個人のものに取り戻そうとした時代、遠近法はどうやら重要ではなくなったようだ。

絵画は、遠近法の奥にある消失点の先に、結局何も見出しえなかったようだ。シネマトグラフがそれを越えたのだから、絵画は画家の自我に直結するしかなくなったのだろう。現代絵画は空間さえ再構成しようとした。