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2014年1月29日水曜日

(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「11.私の華麗な事件」

先日(2013/9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第11回目をここに載せたい。感謝。

イ・ソンヒの、音楽以外の側面での慈善活動や、詞に政治的なテーマと取り組む試行など、あるいは彼女のファン層について知ることができた。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)

[11] 私の華麗な事件
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時折、このような質問をする人がいる。「同じ歌、何度も歌ってたらウンザリしない?」

そのような問いに触れると本当にあきれる。私は、私が好む歌をその時その時の気持ちと舞台の雰囲気に合わせて歌うことがとても楽しくて、その独特の雰囲気を「満喫」しているからだ。

「炎のように(불꽃처럼)」のようなダンスミュージック風の歌も入っているが、ポップ・バラードが中心である5集アルバム(1989年)は、私が歌手デビュー後、ぴったり5年ぶりに出た。このアルバムの最高人気曲は「私の街(나의 거리)」。放送とDJ人気チャートで、2ヶ月以上頂上に留まった歌だ。

5集で格別に愛着がある曲は、「五月の陽射し」である。「5月の光州の英霊」*たちを考えて、私が歌詩を書いた。少なくとも、国民の愛(支持)を受ける歌手ならば、私たちの社会の痛みに「他人任せ」していることはできないと思った。この歌は、大学街のデモの時も「愛唱」されたし、光州のローカル放送では10週連続1位に留まったりもした。だが、一つ物足りなさは残る。私が直接行ってみた光州を素材で映像ビデオを製作しようとしたが、色々な理由で失敗に終わってしまった苦々しい記憶のためだ。**

    (*)5月の光州の英霊: 1980年5月の光州事件参照
    (**)イ・ソンヒは、善意から政治に関わった経緯があるが振幅もあって、現在は遠ざかっているようだ。

1989年6月には、香港3MGレコード社で「これがオリジナルソングだ」*というディスクが出た。ホイットニー・.ヒューストンなどそうそうたる歌手10人が、自身のヒット曲を収録したアルバムだ。アジアでは私が「代表選手」に選ばれたけれど、チョー・ヨンピル先輩が抜けたという事実が、当時にはちょっと面食らってしまった。

    (*)「これがオリジナルソングだ」: 企画アルバムのようだが詳細不明(ジャケット写真:感謝)

しばしば、イ・ソンヒのファンは少女層が大部分であると知られているが、それは事実と違う。1990年7月のある世論調査結果を見ると、男子大学生の24%、女子大生の15%が私を「最も好きな歌手」と挙げたのだ。その調査で、男性歌手ではチョン・テチュン氏が1位であり、私は女性歌手の中で人気1位だった。

(人気)数字だけ次々並べて見ると、ちょっと目まぐるしい気がする。とにかく、私のレコードは男性がたくさん探して、カセットは女性ファンがたくさん買ったそうだ。職場の趣味サークルの内では、男性中心の同好者の集いで私をよく招待する方だ。

昨年の春(1990年4月)、ミュージカルに出演したことがある。世宗文化会館で幕を上げた「オズの魔法使い」の主人公「ドロシー」役だった。ドロシー役は、米国ではダイアナ・ロスが引き受けたとか。とても手に余る舞台であった。

スカートを着て靴をはいたまま、幕間ごとに明かりの消えた舞台裏を飛び回ったら、台詞をいうたびに息があがってフウフウしなければならなかった。また、緊張の連続だったので、体と心が別々に動いた感がなくはない。気球に乗って帰宅する最後の場面では、靴のかかとに装着された豆電球に点灯しなくて慌てたりもした。確かにかかとをぶつければ明かりが「パッ」と入ってくることになっていたが・・・分かってみれば、あちらこちら暴れる(?) 間に、つながれた電線が切れてしまったのだ。

何も知らずに飛びまわったミュージカルを通じて、私は多くのことを悟った。中学2年生だった末っ子の弟(妹?)*が生まれて初めて私の姿を見に公演会場にきて、また非常に不思議に思った。漫画の映画やビデオでは味わうことが出来なかった夢と希望を感じたと言った。「ずっと大きな」子がそうなのだから、まして子供たちが・・・

    (*)イ・ソンヒは長女で、弟とさらに2人のきょうだい(男?女?)がいる。

公演練習のために、放送出演など私の「生業」が支障をきたすことになって、公演後遺症で病んで横になることが心配だけれども、私は今春にもミュージカル「ピーター・パン」に出演する。ズボンではないが、草色のタイツを着た万年少年のピーター・パンの役に。

体が「パキムチ(葱キムチ)」*になれば、いいのだが。私には、万病に効く、薬のような参鶏湯(サムゲタン)一杯あれば軽く「元気回復」するのを・・・

    (*)葱キムチ: 疲労回復に効能があると、ネット上に記述ある。

ミュージカルにすっぽりはまってみると欲が出る。子どもと青少年に夢と希望をあたえる専用の文化空間をたてたいのだ。それで、今でも日本や米国など外国の資料をこまめに集めている。合わせて、誰かが「コンチュイ・パッチュイ」*など、私たちの話をミュージカルで脚色してくださるように祈る。

    (*)忘れ形見の娘コンチュイが継母とその娘パッチュイにいじめられるが幸せをつかむ。(シンデレラと似る)

また、学生家長と進学できない不遇な青少年のための奨学財団の設立も着々進行中だ。隠れてしようとしたことなのに、つい言論(マスコミ)に「見つけられて」'しまった。全国から多くの方々が寄付を送ってくださるが、ほとんど送り返している。例外は、ぴったり二件、①同じことなら障害者も助けようと直接お金を持って訪ねてこられたある障害者の寄付と、②自身も豊かではないスーパーマーケット女性従業員が寄託された「大金」の百万ウォンは、お二方の勢いがあまりにも「みなぎ」って、どうにもならなく「受付」してしまったのだ。

昨年秋(1990年10月)には、カナダのモントリオール室内管弦楽団と共演した。あの「敷居の高い」世宗文化会館大講堂で。その楽団が著名な外国クラシックオーケストラではなかったとしたら、私一人で世宗文化会館の舞台に立つということが可能だったのだろうか? ほろ苦い。また、私が望んだことは、外国楽団でない私たちのオーケストラであった。しかしながら、伴奏はできないというのだから、私だってどうすることができようか。

昨年の春(1990年4月)には詩集も出版して、詩朗唱会も持った。「去る者だけが愛を夢見ることができる(떠나는 자만이 사랑을 꿈 꿀 수 있다)」という自作詩集であるが、大型書店のベストセラー詩集部門1位に上がったりした。元老詩人の趙炳華(チョ・ビョンファ、조병화)先生は「きれいな露をうける小さい野草のような詩・・・繊細で愛らしい詩語・・・」と過分な評をしくださったりもした。

だが、詩をもって、話したい言葉を全て語ることが少し難しかったので、今年の末か来年の初め頃、私の考え、私の生活を書いたエッセイ集*を出そうと思う。

    (*)エッセイ集: 未確認

昨年の初冬には、哲学者金容沃(김용옥)教授と東国大講堂で「デュエット」で歌ったことがある。曲目は「美しい江山」、金教授の招待で行われた突然この日舞台は、私の歌が主でなく、東洋哲学の講義が目的だったが、教授は「芸術はすべからく大衆と近づかなければならない」という信念で、私を講壇上に呼び出したのだった。金教授はまた、私にまるで詩のようでもあって、幽玄な哲学のようでもある歌詞を二編もくださった。
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