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2014年7月17日木曜日

【多摩の代官】江川代官の事績と在地支配

地元公民館で、江戸時代に多摩地区(武蔵)を治めた代官による自治機構を解説する、法政大学大学院の馬場憲一教授による、最終会となる第6回講演「江川代官の事績と在地支配」を聴講した。

(本ブログ関連:”多摩地区(武蔵)を治めた代官”)

今回とりあげられた代官の江川太郎左衛門英龍(号を坦庵)は、例によって次男として生まれ、他家に養子に出され、そこで才を認められ代官にまでになる。天保4年の大飢饉(1833年)に際して窮民救済の業績の他に、ペリー来航など騒々しい時代にあって、洋学を特に砲術を修めて、江戸湾防衛のお台場建設と砲台設置などで知られているという。

江川代官について、特にお台場建設で広く知られているということだが、今回始めて知った。彼は絵も得意で、民情視察の際の部下を従えた主従の絵図や自画像を、配布された資料で知った。眼の大きな彼の顔、どこかで見たような気がする・・・それとも別の人物だったのか。

江川代官が世間に広く知られのは、次の要素があるようだ。当初、開国を要求する外圧に抗するため民兵組織の農兵を作った。しかしながら、幕末、国内治安が(一揆など)不安定となり、対策のため、農兵を使うことになる。「本来外へ向かうものが、内に向かうようになった」(本講義)という。

江川代官の支配は、武蔵野全域にあったが、地元へ直接関与した記録はないそうだ。


(付記)
前回の最後に少し触れられた田中兵隅、今回紹介された江川太郎左衛門英龍など初めて知った人物だ。これから、少しずつつだが、近在の博物館巡りなどする新しいテーマができたようだ。