先日のソウル漫歩の途中、コンビニで念願の「バナナ味牛乳(바나나맛우유)」を購入した。こってりとした牛乳味をベースにバナナの風味が施された、ほどよい量の飲み物である。陽ざしの強い日中行動するため、2軒のコンビニで飲んだことになる。実に美味かった。
さて、近所のスーパーの2階にあるレンタルビデオ店で、「僕の彼女は九尾狐」のDVDを借りて、階下のスーパーで買物をする。今回は、ハウス食品の「フルーチェ <バナナ>」である。フルーチェは、(少なめに)ミルクを混ぜると、とろりとよく固まって、まるで子どもの遊び菓子のようにできあがる。バナナ味のお楽しみはこれからだ。
バナナ味の巡礼はつづく。
(本ブログ関連:”バナナ”)
テレビ番組「僕の彼女は九尾狐」については、視聴が未完に終わり自ら恥じて完遂を欲するというわけで、挽回を期して、(陳列棚のVol.1が貸出中のため)まずはVol.2、3から試聴することにした。ドラマのお楽しみはこれからだ。
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2011年6月6日月曜日
イ・ソンヒの詩「マックス・ミュラーの『ドイツ人の愛』を読んで」
「ドイツ人の愛(Deutsche Liebe)」(マックス・ミュラー:神話学者)という小説がある。先日(5/20)のソウル漫歩で入手した、イ・ソンヒの詩集「去る者だけが愛を夢見ることができる(떠나는 자만이 사랑을 꿈꿀 수 있다)」(LPレコード版、1990年)に所収の詩「マックス・ミュラーの『ドイツ人の愛』*を読んで(막스 뮐러의 '독일인의 사랑'을 읽고 )」がなければ知ることもなかった。
(*)「ドイツ人の愛」は、「独逸人の愛」(相良守峯訳:太陽出版社、1944年)、「愛は永遠に」(相良守峯訳:角川文庫、1953年)というタイトルで出版された。
イ・ソンヒのこの詩は、「愛は長く待たなければならないもの/しかし愛は一瞬にしてたずねてくるもの/そして愛は絶対的なもの/そして愛は利己的なもの/結局、愛は一度きりのもの」と要約されるだろう。彼女の26歳のときである。
幸いWeb上で、小説の一部(2番目と3番目の回想?)を抄訳(訳:中川英世、高岡法科大学紀要Vol.10、Mar.1990)であるが読むことができる。感謝。
随分と大袈裟な題名だが、その内容を要約すると次のようになる。
・小説は、主人公の一人称「私」で、回想風に語られている。
・幼い6歳の主人公は、父親と一緒に初めて侯爵夫妻に出会い、そのときの素朴で単純な愛情表現の振る舞いを父親から咎められ、「よその人」の存在を知り、その意味を学ぶ。純粋で深い愛情に包まれた子どもの世界から、子どもであることをやめてしまう世界に進むのだが。
・「よその人」に対する新しい愛は、渇望する愛であって、献身的に尽くす愛ではない。突き詰めれば、自分本位の愛である。そのことから、返って「見知らぬ人」こそ、もっとも近しい人だということに気付く。
・学校に通うようになった主人公は、侯爵夫妻の子どもたちと一緒に遊ぶことが許される。この頃、「私のものとあなたのもの」との所有の混乱がおこる。
(この辺りについて、作者つまり主人公のいささか社会性-他者との境(さかい)の認識-の乏しさを感じる)
・侯爵の亡き前妻の忘れ形見である、病弱で無口に寝椅子に横たわっている娘、マリーアと出会う。主人公は、成長して少年になっており、彼女を「よその人たち」のなかに見ることができるようになっていた。
・何歳か知らないマリーアは、子どものように見えたが、その物静かな態度から、もはや子どもではあり得なかった。ある暖かい春、彼女は誕生日に自ら指にはめている指輪を、4人の弟妹たちに渡す。そのとき、少年は彼女との間にある「よその人」の境を忘れる。彼女の最後の指輪を持ちたいという欲求にかられる。それに気付いた彼女は、いずれ皆の前から去るときに身に着けておきたかった指輪まで彼に渡した。
・ようやく「よその人」との境に気付いて少年は言った。「この指輪は、あなたが持っていかなければなりません。何故ならあなたのものは私のものだからです。」
指輪を自分の指にはめ直したマリーアは、「あななたは自分の言っていることが解らないのよ。自分が何をいっているのか理解することを学びなさい-そうすればあなたは幸せになれるでしょうし、多くの人々を幸せにすることができるでしょう。」と応えた。
(本ブログ関連:イ・ソンヒ詩集”1、2”)
(*)「ドイツ人の愛」は、「独逸人の愛」(相良守峯訳:太陽出版社、1944年)、「愛は永遠に」(相良守峯訳:角川文庫、1953年)というタイトルで出版された。
イ・ソンヒのこの詩は、「愛は長く待たなければならないもの/しかし愛は一瞬にしてたずねてくるもの/そして愛は絶対的なもの/そして愛は利己的なもの/結局、愛は一度きりのもの」と要約されるだろう。彼女の26歳のときである。
幸いWeb上で、小説の一部(2番目と3番目の回想?)を抄訳(訳:中川英世、高岡法科大学紀要Vol.10、Mar.1990)であるが読むことができる。感謝。
随分と大袈裟な題名だが、その内容を要約すると次のようになる。
・小説は、主人公の一人称「私」で、回想風に語られている。
・幼い6歳の主人公は、父親と一緒に初めて侯爵夫妻に出会い、そのときの素朴で単純な愛情表現の振る舞いを父親から咎められ、「よその人」の存在を知り、その意味を学ぶ。純粋で深い愛情に包まれた子どもの世界から、子どもであることをやめてしまう世界に進むのだが。
・「よその人」に対する新しい愛は、渇望する愛であって、献身的に尽くす愛ではない。突き詰めれば、自分本位の愛である。そのことから、返って「見知らぬ人」こそ、もっとも近しい人だということに気付く。
・学校に通うようになった主人公は、侯爵夫妻の子どもたちと一緒に遊ぶことが許される。この頃、「私のものとあなたのもの」との所有の混乱がおこる。
(この辺りについて、作者つまり主人公のいささか社会性-他者との境(さかい)の認識-の乏しさを感じる)
・侯爵の亡き前妻の忘れ形見である、病弱で無口に寝椅子に横たわっている娘、マリーアと出会う。主人公は、成長して少年になっており、彼女を「よその人たち」のなかに見ることができるようになっていた。
・何歳か知らないマリーアは、子どものように見えたが、その物静かな態度から、もはや子どもではあり得なかった。ある暖かい春、彼女は誕生日に自ら指にはめている指輪を、4人の弟妹たちに渡す。そのとき、少年は彼女との間にある「よその人」の境を忘れる。彼女の最後の指輪を持ちたいという欲求にかられる。それに気付いた彼女は、いずれ皆の前から去るときに身に着けておきたかった指輪まで彼に渡した。
・ようやく「よその人」との境に気付いて少年は言った。「この指輪は、あなたが持っていかなければなりません。何故ならあなたのものは私のものだからです。」
指輪を自分の指にはめ直したマリーアは、「あななたは自分の言っていることが解らないのよ。自分が何をいっているのか理解することを学びなさい-そうすればあなたは幸せになれるでしょうし、多くの人々を幸せにすることができるでしょう。」と応えた。
(本ブログ関連:イ・ソンヒ詩集”1、2”)