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2011年1月4日火曜日

石の世界(2)

薄田泣菫の掌編「石を愛するもの」(青空文庫掲載)を読んで、石を愛するものの心情を覗いてみよう。

わが身を同化してしまいたいほど石に愛着するものは、冷静な蒐集者や石と無縁のものから見れば、まこと奇人でしかない。ところが、その奇人の心情に一度でも感応してしまうと、もはや以前に戻ることはできない。奇人とそうでないものの境界は何処にあるのだろう。
奇人は、桃源郷のごとき景観を石に見つける。「黒く重り合つた峰のたたずまひ、白い水の流れ、洞穴と小径との交錯、――まるで玉で刻んだ小天地のやうな味ひは、とてもこの世のものとは思はれなかつた。」*と。彼の幻想世界を、あなたが一瞬なり覗いてしまうや、境界は崩れ、彼の世界へ引き込まれてしまい、そのとき彼は得意げに、「どんな人だって、(こんな石を)愛さないわけにはゆきますまい。」*と念をおすに違いない。
(*)薄田泣菫の掌編「石を愛するもの」

尾崎放哉の随筆「」(青空文庫掲載)を読んで、石に命を感じる心境をさぐって見よう。

俳人の彼が終の棲家に定めた(花崗岩を基盤とする)石の島は、穏やかな瀬戸内に浮かぶオリーブの茂る島でもある。孤独者のためか、「私は、平素、路上にころがつて居る小さな、つまらない石ツころに向つて、たまらない一種のなつかし味を感じて居るのであります。」**と、物言わぬ石に対して近しさを述べている。風景の中から石が、ぽっかりと浮かび上がり、確かな存在にまでなった。
そうなると、「すべての石は生きて居ると思ふのです。石は生きて居る。どんな小さな石ツころでも、立派に脈を打って生きて居るのであります。」**と、石との距離が益々縮まり、他の文人が中国の伝奇を通じて石への愛惜を語る奇談とはいささか趣が異なってくる。そのとき俳人は、自ら石の虜になった。
(**)尾崎放哉の随筆「石」

(本ブログ関連:”石の世界”)