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2010年11月23日火曜日

見ることについて

鏡は光を反射しているだけで、鏡が像を作っているわけではない。はじめに光があって、鏡を向かい合わせると光を互いに反射し続ける。

動物は、鏡に写る自分の姿に反応して、テリトリの侵入者とみて鏡に直接攻撃したり、鏡の裏に回って存在を確認したりする。ところが人間の幼児は、鏡に映る姿を直ぐに自分と認識できる。

意志や推測の文章を綴るとき、「~(して)みたい」とするが、「~(して)見たい」とはしないようだ。けれども、その表現には「見る」の意が含まれているのだろう。発する言葉が鏡の役割をしているのだろうか。

子どものころの隠れんぼで、押入れに隠れ、襖をそっと開けて小さな手鏡で外の様子をうかがった。素晴らしいイデアで一度試してみたかったのだ。探しているオニの姿が見えた。そして目が合った。そう、鏡の像はわたしの目ではなくて、反射して互いの視線を感じることのできる世界だった。直ぐに捕まってしまったことはいうまでもない。鏡の世界は共有される言葉のようだ。

子どもが入院して、付き添いの親がベッドから少しの間離れるとき、その子の不安な様子を、親は見ることはできない。後追いする気配を感じたり、他に似た光景を見て類推するしかない。
子どもがどんなにうろたえているか直接知ることはできない。目を置いていくわけにはいかないし。
でも、親子の深い情愛は、見るだけで作られるものではないことも、孫の入院を見てよくわかった。
おやおや、見ることのループに嵌まってしまった見たいだ