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2009年9月12日土曜日

小金井の今昔

小雨のなか、地元公民館による「小金井の今昔を知ろう」に参加して、貫井(ぬくい)地区を歴史散歩する。
中央線北側のこの地区にある東京学芸大学正門に集合。戦前、現在の大学敷地を超える大規模の「陸軍技術研究所」があった。その範囲を示す貴重な地図(コピー)が配られ、その広大さに驚く。不思議なことに、当時の子どもたちは隣接する稲穂神社からもぐり込み、所内中央の研究用プールで泳ぎ遊んだという。

次に中央線南側を巡る。昔の貫井村は隣接する小金井村と比べて、有利な農業基盤があるばかりでなく、私塾教育など文化的背景も含めて確固とした郷土意識を持っているという話を後でうかがった。今日、たまたま貫井神社の大例祭の日にあたり、年に一度見られる美しい木彫を飾った大きな山車の準備光景をうかがうことができた。
午後のレクチャーで、講師の先生は「歴史として物事をみる場合、伝聞だけでなく、その事実を示すもの、例えば古文書などが必要であるが」と語られた。

帰り際、講師の先生に、当時の武蔵野の常食を教えていただいた。台地に住むものにとって、「うどん」は「ハレ」のときに食するもので、普段は麦飯であったという。また、低地で湧水を利用できた米作農家の二男三男は、「うえ」つまり「乾燥した台地」に上がって独立、活路を拓くこと、うまくいけば台地で新田(≒麦畑)開発した。そうでない時代、家付きとなって他家の跡継ぎ(養子)となることを待つケースもあったという。

また、「武蔵野麦打唄」が当地で歌われたかは確認が必要とのこと(=教示してくれる方を紹介された)。この民謡の最後の「今日の麦はこれ限り 明日は又 どなたの麦を打つやら」のフレーズは、民謡に共通したパターンでもあるので、あまり深読みしなくてもよい。以上の旨を、穏やかな口調で講師の先生は語られた。

次回、最終回だが所用のため参加できないことが悔やまれる。講師の先生および関係者に感謝申しあげる。